連載:保育から「子育て」へ

こんにちは

 働いているから保育園に預ける、3歳になったから幼稚園に行かせる、最近では、働いている・いないという親の事情にかかわらずに利用できる「認定こども園」があります。こうした場合を「保育」とし、家庭で親が育てる風景を「子育て」と、ここでは使い分けます。「保育」と「子育て」で違うことは何か? 共通することは何か? と、考えながら、子どもの発達に必要なことを探究します。家庭の子育てで、すぐさま役立つことを心得ます。

山田利行 2019.1.28.~

目次
  1. はじめに ──「子育て」に目覚めて
  2. はじめに その2 ── 子育てと「規範」
  3. 両手に、砂を盛る
  4. 大家族を考える
  5. 父親の役割
  6. 毎日がドラマ、だから保育は楽しい。親はツライ。
  7. 保育は引き算、子育ては足し算。
  8. 3歳の自立
  9. 年齢の数で遊ぶ──「集団」の意味
  10. ※つづく

1: はじめに ──「子育て」に目覚めて

 「保育と子育て」。言葉の並びを変えることで、同じ内容に思えることでも見えてくる世界が違います。私は2008年から「保育と子育て」という命題を保育士養成校教員時代から思考してきました。2018年に認定こども園を辞め、保育の現場と距離をとりはじめてから「子育てと保育」と並び順を変えることにしました。
 変えた当初は、順序を変えたものの目指すことが特に変化したわけではありません。他の保育園を出入りしていることもあって、私の思考はまだまだ「保育」優先でした
 しかし、園外で子どもたちと接したり、園の内でなく、園の外で保護者たちと接しているうちに、「保育」優先は変わらないまま、「子育て」の意味を考えることに馴染んできました。
 子どもの「発達」を考えることについては、「保育=子育て」と等号で結べると思っていましたが、それは間違っていることを徐々に認識するようになりました。
 保育を優先して考えているときは、私がその「現場」にいました。現場でその経験を積みながら、あるいは研鑚しながら「保育」を考えていたということが、今更に気づくのです。理論に曖昧さを感じながらも現場をこなす、という感じです。しかし、現場を離れて「子育て」を考え、その保護者に納得のゆく説明をしようとすると、ごまかしがきかないのです。

 朝起きれば食卓の用意をし、食事をし、場合によっては乳幼児に食べさせ、自分の出かける準備をし思いを巡らし、学校へ送り出し、保育園に子どもを送り、やっと走りながら自分の用事に集中できる。子どもの迎えは省略しよう。こうした日常を繰り返すなかで通用する「子育て」の理論とは何だろうか。
 子どもにとって最も大切な人は、親だろうしきょうだいだ。どんなに先生が熱心になろうとも、子どもに慕われようと、親に勝るものはない。手垢のついた表現みたいだが、そうなんだ。
 そうやって、やっと私は目覚めたかなというのが、今の到達点です。連載として、続けて考えてゆきます。

2019.1.28

2: はじめに その2 ── 子育てと「規範」

 ものごとを考えるとき、言い方を変えると、何が正しくてそうでないか、となりがちです。子育てを考えるとき、子どものいのちとしあわせが最も大切でそれが目的ですから、それに反しない限り、すべてが正しいということではないでしょうか。「正しい」ことを押しつけられることは不愉快です。
 家庭での子育ては一人あるいは二人あるいは三人です。もっとにぎやかなおうちもあるでしょう。それでも、保育室の10人、20人ということはないでしょう。家庭での子育ては「もちあがり」です。保育室では年度ごとに先生が同じか違ったりします。ですから、保育室の先生にとっては「正しい」ことが必要かもしれませんが、家庭の子育てには必ずしも必要でないか、ある家庭では正しくてもある家庭では間違いかもしれないし合わないかもしれません。
 こうして考えると、「家庭の子育て」を「保育室の先生」に託したり、その逆もありません。このことはとても大切なとらえかたと私は思います。しかしこのことはとてもむずかしいことです。たとえば、行政は「子育て支援」の目的で様々な施策を行います。「支援」という意味は、主体は親(保護者)であり子どもです。あくまで行政は「支援」なわけです。
 「保育」の立場でものごとを考えているときは、できるだけ教条的にならないようにしているつもりでも、規範や理論を求めて、やかましくなりそうな自分に気づきます。「家庭の子育て」を柱に考え直したいと思っているので、しばらくはこういう”反省・自戒”をこめて論点を整理しながら進めようと思っています。

2019.2.8

「正しい」を疑う
デュオこうべ・サンポルタ広場  「だまされたい」と思う者はいないだろう。だまされぬように用心する。どんなふうに? だまされない処し方は、だまされてみることが最も確かな方法ではないか。だまされないよう身構えるのでなく、「まず信用しよう。この人にならだまされてもかまわない。」...

3: 両手に、砂を盛る

 寄せては返す渚(なぎさ)は私の好きな場所です。風の強い日はご遠慮願って、夏はもちろん冬でも、波の音を聞きながら波打ち際にたたずむと膝を折って砂をすくってみます。
 両手で砂をできるだけたくさん、山盛りに、すくってみましょう。なるべくこぼれ落ちないようにすくいあげましょう。その手を、おとなの女でイメージします。男はすくえないのです。なぜ? あかちゃんの誕生です。
 砂はさらさらとこぼれ落ちます。落とすまいとしても、こぼれます。落ちてゆく砂も美しい。音を立てずに落ちてゆきます。「子育て」とは、すくった砂をこぼさないようにすること、と考えてみたいのです。
 すくった砂に「足そう」とするのが「子育て」になっているのが現実だと思います。足すほうが簡単で、足すこと=育てること、と考えることは無理ないと思います。けれども、「すくった砂をなんとかしてこぼさない」が「子育て」と提案するだけで、ハッと気づく人も多いのではないでしょうか。
 あかちゃんが誕生したとき、あかちゃんが無事に産まれたことをよろこび、同時に母が元気なことを確かめてホッとします。あかちゃんを抱いて「母」になった実感を、すぐさまかまたは時間とともに得られるのでしょう。「父」も安堵とともにそれを自覚することになるでしょう。ここでは、順番があるのです。母が先で父があと。だから、砂をすくうイメージのその手は「女」でなくてはならなかったのです。

 さらさら落ちる体感は養浜した砂浜では得られません。須磨海浜公園の砂浜は視界の広さを感じられる場所ですが、砂つぶは荒くて大きく気持ちよいとは言えません。ビーチサンダルに入り込む砂は、きめ細かい砂だと痛くなく乾くとさらさら落ちます。これも気持ちよいものです。しかし、荒い砂だと痛くて乾くのを待つよりも払ってしまいそうです。名の知られた海浜よりも、ひっそり静かな浜の砂が「子育て」に思いを寄せる砂に向きそうです。

2019.2.19

4: 大家族を考える

 2014年6月10日の午後、私は、石巻市北部、十三浜(じゅうさんはま)の仮設住宅団地に居た。太平洋の波が陸にあたる。この年の3年3か月前、10メートルを超える津波に遭った。眼下に見える海原から海面が山の中腹までせりあがってきた。漁船が山に突き刺さった。知り合いがいるわけでもなく、付近をさまよっているうちに、山奥の高台にある仮設住宅団地をみつけた。山奥の高台と表現したけれど、眼下は太平洋だ。これがリアス式海岸だ。
 団地の入り口にあった屋根付き集会所前のベンチにおばさんが数人、おじさんが一人いた。そのベンチに私も座った。年寄りの土地の言葉、会話は同じ日本語とは思えなかった。さっぱりわからない。95%がわからないと言ってもよい。私にも声かけしてくれた。その問いには応えられた。おばさんというよりも「おばあさん」と表現したほうがよいのかもしれないが、そこは遠慮でなく不明のままだ。そのおばさんたち、しゃべるしゃべる。といっても中身はさっぱりわからないのだが、長く居るうちになんとなくわかってくることがある。
 ──わたしらの流されてしまった家は、広かったの。息子の家(都会)みたいな狭いもんでない。仮設はせまいせまい。あんなとこ住むとこではない。でも、(流された家に)わたしのいるところはなかった。ごはんつくって、働いて、お客さんの世話をして、でも、わたしのいるところはなかった。これからは遊びまくってやる。男なんか、いらん。(みんなが大笑いする) もう面倒なんかみてやるもんか。自由にさせてもらう。
 一人いたおじさんはとばっちりをうけ、あらぬ方向をみていた。その気迫を受け、それだけで今ここにいる自分を感じとった。「女三界に家なし」を現実にした。

「大家族」と「核家族」という言葉をご存じですか。「大家族」は「三世代家族」と呼ばれることのほうが多くなりました。この変遷は簡単には論じられませんが、核家族の社会化を私は支持し受けいれています。戦後、子どもは核家族で育てられてきました。しかし、大家族で育てられてきた過去と比べて、子育てに何が必要で大切だったのか、その多くを置き忘れてきたと私は考えています。
 ──砂をすくうイメージのその手は「女」でなくてはならなかったのです。
 前回の末尾に記しました。母親というだけでなく女性の立場を時間軸で考察しておくことが「子育て」の前提になると私は思うのです。

2019.3.18

5: 父親の役割

 認可保育所をつくろうとしている園長と話しをしていて、父親の「保育園のファンクラブ」をつくってはどうかと提案した。豊中市のT保育園は上階に保護者や父親が懇談する専用ルームを設置していた。1970年代前半に活動を始めた「兵庫県自然教室」では親たちの参加を積極的に進めていた。父親だけの集まりを夜に開催して好評だった。
 窓ふきなどの掃除、遊具製作で父親の手を借りようという呼びかけはよくある。そうではなく、お茶会などで懇談をしようという提案だ。
 「火おこし(火熾し)」というイベントを私はときどきする。子ども向けで行うことから「昔遊び」のような捉えられ方をされがちだが、そうではない。古代に火をおこすことが日常だったとしたら、そのつど大変な作業だったとは想像できない。イベントでも火がつくときは3分以内だ。それ以上は体力がもたない。古代の人は日常生活はすべて体力が勝負だから、火おこしはたとえば1分以内でそれも体力をさほど消耗しないことだったのかもしれない。
 イベントで子どもが行った場合、子どもは小学生のケースが多い。火は熾らない。家族連れだと、スマホで記念写真となる。舞きり式という方式で、見守っているおとなは貴重な体験だと眺めている。しかし、なかなか火は熾らない。煙がたてばよいほうで、もうちょっと!と励ましているうちに子どもの体力はなくなってしまう。そして、ここぞと父親が登場する。母でなく父なのだ。こうして火おこしイベントは家族ぐるみとなる。父親の活躍で炎を見ることになれば、父の役割が見られて微笑ましい。
 あかちゃんが生まれた当初、父はおたおたと見守るしかない。妻を励ましたり、妻の負担を軽くしようと家事をさがし受け持とうとする。
 だからこそ、保育園に父を対象としたファンクラブがあり、お茶ときには酒を酌みかわわしながら、子育てを共有する場があってよいと私は思う。大家族から解放されて、では核家族でどうやって子育てをしたらよいのか。父の役割を根っこから考えて欲しいと思う。
 大家族時代、用事があって学校へ足を運ぶのは、父の役割だったという。しかし、当時のそれと、いま私が問うていることとは意味が違っている。

2019.4.4

6: 毎日がドラマ、だから保育は楽しい。親はツライ。

 「血湧き肉躍る」は青春だけではない。幼児期もそうだ。青春の毎日がもしそうだとしたら疲れて心身もたないだろう。だけど、幼児はへこたれない。眠気がさめたらドラマが始まる。泣き終わったら復活する。おはよーと声かけられて、さあ始まったと思える保育者は子どもが見える。ドラマにつきあえる仕事が保育。でもね、毎日はキツイと思ってしまうのが親(ですよね)。
 山あり谷ありのドラマではないけれど、遊びたい気持ちが押さえられない。そうしたドラマがゆるされる環境で子どもは育つ。砂場で遊ぶ姿は荒々しくないけれど、見立て遊び・ごっこ遊びにふける。絵本のページをめくるように、始まりと終わりのストーリーがある。あえて参加する必要はないけれど、そばにいてくれているだけでいいのだけれど、保育士や親がおとなが見守ってくれているだけで物語は進行する。いつまでもつきあえるのが保育者。そろそろ帰りたいなあ、帰ってすることあるしと思うのが親。
 雨降りでも、かさであそべるよ。テーブルがあれば、お絵かき、折り紙、本読み、なんだっていい。いっぱい遊んだら、片付けなくっちゃ。ルールを決めているのが保育者。結局、最後は私の役目と思ってしまうのが、親。
 親は大変だなあって思う。毎日毎日、際限がないのだから。ドラマの主人公、脇役、仲間に入りにくい子、それぞれの正確や発達のようすをフォローするのが保育者の大切な仕事だが、その期待に応えるには不断の準備が必要だ。これを楽しいと思えるかどうか。
 そのドラマはいつまでも続くのではない。小学5年生くらいになるとけっこう冷めてくる。早ければ、小学3年生あたりから偶発的なドラマを期待しないで計画好きになるかもしれない。きのうと今日、今日とあすの区別をつけようとするだろう。子育てのしんどさは、子どもにバトンを渡すことで軽減される。心配はいつまでもだが……。

2019.4.18

7: 保育は引き算、子育ては足し算。

 保育実習前、学生は準備に忙しいが、気持ちも張ってくる。保育室には20~30人の子どもがいる。子どもは「お客さん好き」なので、保育室に入ったとたん「なにしにきたん」と声が飛び交うと同時に、子どもたちが取り巻く。正確に記述してみよう。
 じつは、みんなが寄ってくるのではない。幼児であっても、彼らは時間を無駄にしない。遊んでいる最中、佳境さ中の子は寄ってこない。せいぜい首を向けて(誰か来た)と思う程度だ。他人になつきにくい子も来ない。まあ、半分だ。その10人程度のうち、必ず誰かが手をさわりにくる。膝に乗ってくる。手は2つ。ひざも2つ。4人定員で満員。手をつないだ子、ひざに乗っている子。この子らは、みなくてよい。だから10-4=6をみればよい。引き算なのだ。20人いるクラスでも、10人は遊びをやめず、寄ってきた子のうち4人は預り済みだから観察したい子は6人になる。このことを実習期間のあいだに気づけば合格だ。
 さらに上等なことを言えば、遊びをやめてまで”おきゃくさん”に寄ってくる子は、遊びが十分でなかったと推察できる。これをヒントに、子どもとやりとりを加えることで、保育者として今すべきことは何かと思いが馳せればさらに合格だが、初心者に望むのは無理だろう。観察すべき子をみつけるのは引き算なのだ。
 親に引き算を求めるのは、むずかしい。うちは放ったらかしよ、と言いながらも、気持ちは足し算だ。引き算を誇れる親は少ないし、引き算がよいと勧めるのではない。保育園に子どもを迎えに行き、そのとき、子どもが求めていることは、親の足し算だ。保育士が所詮親になれないのは、こういうことだ。私の考えでは、小学3年生になったら、親は引き算の練習を始めて欲しい。それまでは、足し算だけでよい。
 出産で我が子を抱いたとき、出会ったとき、足し算以外あり得ない。足し算で始まる子育て。何をしてやっても足りない思いがつきまとう。子育ては足し算だから。蛇足だが、抱き癖というのがある。これは、引き算思考だ。気にしない、気にしない。抱き癖、けっこう。子どもは足し算を求めている。
 かわいい子には旅をさせよ、の成句がある。まさに「旅」が引き算を表している。

 ところで、子育てが足し算であるのなら、保育も足し算が正解でないか。引き算で観察すべき子をみつけてからは、足し算ではないか。否、保育士ひとりあたりの受け持ち人数が多すぎるからではないか。もし、保育士1人に担当する子どもが1人ならば、足し算でよいではないか。たとえば、5歳児であっても、子ども5人に保育士が1人だったら、これも足し算でよいだろう。集団の人数としては少ないならば、10人に2人、15人に3人ではどうか。

2019.5.13

8: 3歳の自立

 満3歳では、自力でどれくらい歩くのでしょう。300メートルほど歩くと抱っこをせがむこともあれば、延々と1キロほどを歩くこともあります。興味次第ということでしょうか。2キロの道のりを歩いている”3歳児”とつきあったことはありますが、満年齢は4歳だったかもしれません。上述とは別の、同じ3歳児が500メートルを歩いたとき、楽しかった思いを込めて「〈遠い〉ところへ行った」と誇らしく話しました。
 〈遠い〉という言葉を発しても〈近い〉という表現を私は聞いたことがありません。保育士(おとな)がつかう言葉をその意味するところでわかっているのでしょう。しかし、対語としての〈近い〉はまだのようです。声かけの大切さを悟ります。
 保育園など集団で歩くとき、先生が手をひくには限りがあります。手をひいてほしいけれど、明らかに遠慮している子がいます。一つのてのひらに2つの可愛い手が寄ってくることもあります。お互い、歩きにくいですよね。おしゃべりしながら歩きますが、抱っこをせがむ子は、まずいない。しかし、親子だとそれはあっという間です。50メートルも歩けば「抱っこ!」。ベビーカーが目に入ればなおさらですが、ベビーカーに手荷物が乗っていれば子どもは歩く。あるいは、ベビーカーを押すお手伝いをする。気分屋さんで、じつは歩くのも楽しい。
 3歳、ひとりや友達といるときは平気で歩いてすごすのに、親がそばにいるとなんでもしてもらいたい。靴もはかせてもらいたい。服も着せてもらいたい。でも、自分で靴もはけるし服も着られる。お手伝いも好き。自立をお手伝いするのが、おとなの役割かなと思います。

2019.5.23

9: 年齢の数で遊ぶ──「集団」の意味

 ゼロ歳は母の世話になり、1歳では1人で遊ぶ。2歳では誰かと対になって遊ぶ場面が見られる。3歳になると3人で遊べるようになる。自分を含めての数なので、3歳では2人の友達と遊べるということだ。2歳の対になっている相手は「友達」とは呼べない。しかし、3歳になると、だれそれちゃんと名前を呼ぶことをしながら、友達らしくなってくる。
 園庭では多数の子らが遊んでいる。集団で育つとはいえ、よく観察すると一人遊びしている子がいる。遊び仲間を作っているとはいえ、目安は年齢だ。〈年齢の数で遊んでいる〉。4歳なら4人。5歳なら5人。まさか、そんなマニュアルのように遊んでいるわけではないが、必ずしも多くない。5歳の5人はメンバーが変えながら、それなりの集団を為している。
 興味深いことは、泥だんごを作る遊び。「ひとり遊び」に泥だんご作りはカテゴリーされるかもしれないが、これも園庭をよく観察してほしい。砂場の端、園庭の隅っこ、花壇のあるところですわりこんで泥だんごを作っている。そして、1人ではなく、なぜか2人、3人が寄り添って作っている。競い合っているふうでなく、楽しんでいるようすだ。視野をひろげると、泥だんごに興じているグループはほかにもいる。一箇所に集中せず散らばっているが、それぞれが3人程度のグループを為している。
 友達はどのようにして得られるのだろう。子ども同士、幼児のあいだの人間関係はどのようなしくみになっているのだろう。それは研究者におまかせするとして、泥だんご遊びにあるように、一緒にいる時間の共有が大切なのかもしれない。共有という意味では、10人、20人という集団生活にも大切な意味が含まれているのかもしれない。

 幼児だけの遊び集団は、保育園など特殊な場合に限られ、大きいお兄ちゃん・お姉ちゃんに遊んでもらっているのが、幼児だ。5人程度で鬼ごっこをしてもつまらない。10人くらいだと遊び集団にリーダーの役割が必要になってくる。小学生が主体の場合、リーダーの力量次第で集団の大きさが決まるということか。

(つづく)

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