子どもの姿と公共 ──子ども文庫の歴史に学ぶ

高橋樹一郎『子ども文庫の100年』を読んで

  • 高橋樹一郎『子ども文庫の100年』
    • 副題「子どもと本をつなぐ人びと」
    • 発行: 2018年 みすず書房
  1. 「子ども文庫」を揺らがせる子どもたち
  2. 福祉活動としての「子ども文庫」
  3. 「子ども文庫」活動から公共図書館のありかたを考える
  4. 子育ての素地が、江戸時代からあり、「子ども文庫」につながる

1.「子ども文庫」を揺らがせる子どもたち

 日本に「図書館」と呼ぶにふさわしい機能をもったものは奈良時代まで遡れるらしい。明治になって西欧の制度を取り入れることに熱心だった政府は、1872(明治5)年 に国立国会図書館の前身を創設している。1877年以降は各地に公立図書館が設立されている。そうしたなかで、最初の「子ども文庫」は1906(明治39) 年、東京青山に設立された「竹貫(たけぬき)少年図書館」とある。子ども文庫とは、家庭を開放したものから公民館などに開設されるものまであり、そのピーク時は全国に4406あったという。蔵書数十冊の”文庫”があるということから「子ども文庫」の定義もむずかしい、曖昧だ。この本では、可能な限り何が「文庫活動」かも含めて、子どもと本とのかかわりを明治から現代までにわたって調査している。

 文庫活動の主役が女性であったこと、子育ての一場面であったはずだったことなどを思えば、文庫活動の関係者でなくとも、「子育て」を考えるに関心をもたざるを得ない。「子ども文庫」の名にふさわしい活動の活発化は、1960年代から始まり1980年代には4000か所を超えたという。文庫活動は拡がったが、不登校やいじめなど子どもをとりまく課題も増えた。なぜか。

 260頁に「時間に追われる子ども」の見出しがある。「月謝を払って、何時から習字、何時からはそろばん、あるいはピアノ、英語とスケジュールに追いまわされる。」「自由な時間を持たない子どもも辛かろうに」。この「」の部分は脚註を参照すると1982年の頃になる。自由な時間をもたない子は読む本の幅も狭くなるとし、高学年になっても軽い読み物などをあさり、歯ごたえのある文学作品に手を出さない傾向がある、としている。むさぼり読む子があふれた過去は文庫の世話人を熱心にさせたが、時代がくだって世話人の意慾がさめる原因としている。

 264頁には「本を楽しめぬ子ら」の見出しとなる。「80年代後半から90年代に入ると、その状況はさらに加速する。」「86年頃から子どもの読書の傾向に変化が現れた。」と画期を表現している。「いつしか文庫に集まる子どもたちは2歳児から小学校低学年が殆どになってしまった。図書館や他の文庫にも同じ現象が現れ、”子どもの本ばなれ”という寂しい言葉をよく耳にした。」としている。

 こうした課題に対して、次の問題提起がみられる。
──子どもの読書力低下の問題は、子どもの生活全体と関わりがあり、文庫だけで簡単に解決できるものではない。しかし、80年代以降、子ども文庫に関わる人々は、意識するしないにかかわらず、子どもの文化を支える基盤が揺らいだ社会で、本を手渡すことを宿命づけられたことになった。そして、この揺らいだ基層をどうすれば修復できるかという、小さな子ども文庫には手に負えない大きなテーマに立ち向かうことになる。──(267頁)

 「子ども文庫」の役割は、これまでの文庫活動を超える働きが求められることになる。

2. 福祉活動としての「子ども文庫」

「竹貫(たかぬき)少年図書館も、千代見園も、それに先だって孤児院が設立されていた。西念寺も、近隣にスラムを抱えており、その地域の子どもたちの教育、福祉が背景にあったと思われる。つづく大正時代にも、関東大震災を契機として文庫活動が始まる例もあり、人をして(※後述)文庫の開設へと向かわせる動機は、教育、娯楽への要求だけでなく、深いところでヒューマニスティックな促しがあったのである。」(38頁)

 竹貫少年図書館は竹貫佳水(かすい)が1906(明治39)年に設立し、記録に残っているものとしては最も古い。その少年図書館を想像させる引用が24頁にある。
──名こそ図書館と云へ実は善良なる少年児童の遊び場なり本がよみたくば読み絵が見たくば見るべし日曜の休暇にこゝに遊ばゞ必ず利する所多かるべし。
──昨日午前八時頃新宿停車場へ六部姿の二人の少女が下車し駅長に書状を差出せしハ山形県米沢市字上通町青木おつね(九年)と妹おつぎ(七年)にて両人ハ昨年両親に病死されて孤児となり米沢停車場の駅長秋山右之助が情けにて赤坂区青山北町の竹貫孤児院に入院させんと金まで與へて福島、赤羽、新宿、渋谷の各駅長に宛てたる書状を渡し無賃にて出京せしめたるが新宿駅長も同情を表して駅員より幾分の醵金をして姉妹を慰め竹貫孤児院に送り届けしと云ふ。

 千代見園は1910(明治43)年に函館にて、財を為した寺井四郎兵衛という商人によって設立されている。明治維新以降の大火(1896年・1899年)による被災者救済で「函館慈恵院」を私財で興しこれの敷地に「児童図書館」を開設している。

 明治、大正、昭和の初期に、賀川豊彦、石井十次ほかキリスト者西洋人など多くの民間人によって、隣保館(セツルメント)などが設置され福祉の基礎を支えてきたことはよく知られる。こうしたなかに「子ども文庫」も位置づけられるということだろう。
「いつしか文庫に集まる子どもたちは2歳児から小学校低学年が殆どになってしまった。」(264頁)とあるが、子どもが文化あるいは社会と出会う接点は「教育」ではなく「福祉」のありかたが優先されるということだろうか。(※)「人をして」(38頁)という筆者の表現は必然的なものかもしれない。

 今日、教育基本法や児童福祉法の改正、認定こども園に代表される乳幼児への施策において「教育」へ比重が傾きつつある。が、それは原点に「福祉」があり、それが揺るがない基礎となって教育が保障され、子どもの将来に未来を託すことができる、と考えるべきでないか。さらに一言つけ加えたいことは、そこに女性がいる・いたということだ。子ども文庫の歴史を女性たちが主になって築きあげてきたこと、ボランティア(男性を含む)で支えられてきたことをおぼえておきたい。

3.「子ども文庫」活動から公共図書館のありかたを考える

 理想の図書館とは何か? 著者は(奈良県)天理市立図書館館長補佐とあるからそういう思いはあるだろう。それを「子ども図書館」100年の歴史に学びたいということだろうか。実際、「子どもの文庫」活動をとおして、おとなたちは公共図書館に求めたいことを追及し、その実現をめざし行動するに至った。「第七章 理想の図書館のイメージづくりに貢献したもの」「第八章 文庫関係者による図書館づくり運動」と全10章のうち2つの章を設けている。

 明石市立図書館は、2017年1月27日、その名称を本館については「あかし市民図書館」と変更し、明石駅前の南にできた再開発ビルに4か月の長期休館を経てオープンした(魚住にある西部館は休館期間なく継続して運営されていた) 貸し出し冊数を1人あたり10冊から20冊に変更したことが理由と思われるが、2018年12月に貸し出し冊数を新館オープン以来300万冊を達成したことで「祝貸出冊数/300万冊達成」と館内で掲示した。しかし、私は「祝」の意味が不明だ。図書館の運営主体にとっては祝い事であるかもしれないが、市民に掲示して示すということは市民にとっても祝い事となると理解したいが、なぜ貸出冊数の多いことが掲示(慶事)になるのか、理解に苦しむ。

 新しくなった図書館を歓迎しない、ということではない。駅前に移転して便利になった。旧館近隣の人たちには遠くなったということでもあろう。開架スペースは広くなったが、それよりも館内照明に程よい快適性を感じる。しかし── 図書館としての役割はどうなったか? ということになると、特に変化を感じない。旧館以来、図書館を利用してきた市民には歓迎されていると思うが、貸出冊数が増加したとはいえ、利用している市民の実数(登録者数)は増えているのだろうか?

「貸出冊数」は図書館の機能を表す指標ではあるが、機能はそれだけではない。専門用語でわかりにくいが、図書館同士で行う「相互協力」による明石市立図書館が借り受けている冊数は2017(平成29)年度で「164冊」とある。これは年間合計数の数字だ。貸し出している冊数は「649冊」だ。これは何を意味するのか。

 本を求めて訪れる市民は、目当ての本を決めている人もあれば、解決したい課題に対して本に助けを求める人も多くいるはずだ。課題解決は果たされたのだろうか。他館に求めなくても、自館の蔵書で解決したのだろうか。相互協力の実績冊数が借り受けも貸し出しも少ない(少なすぎる)と私は思う。そして、〈大数の法則〉的にはこの2つの貸借数字は同じくらいになるのではと思いながら、落差がありすぎる。ここに図書館の機能が(明石だけでなく図書館一般に)十分でない、と私は思う。

 以下は、本書176頁以降の記述である。「市民が必要とする本を一冊でも多く提供し、所蔵していない本は他館から取り寄せたり購入するなど利用者の要求に全力で奉仕する」「民主的能力を形成するのが図書館の役目である」この脈絡で登場するのは、日野市立図書館である。「子ども文庫」ではなく公共図書館である。この公共図書館と子ども文庫とは直接の関係はないが、理想の図書館を論じようとする同じ章で石井桃子の『子どもの図書館』が並列して論じられている。市民に期待される図書館づくりとは、子ども図書館に求められるものと相似するということだろう。

4. 子育ての素地が、江戸時代からあり、「子ども文庫」につながる

 ──子ども文庫がこれほどに活発に広がったのには、こうした活動をはぐくむ素地がこの国にあったのだと思える。(295頁)

 そうだ!と相槌を打ちたいが、じつはこれから調べたい私のテーマでもある。むち打って子育てしてきたらしい西洋式でなく、幼児のときから寝室を分ける子育てのような西洋式でなく、日本では古来、少なくとも江戸時代においては、子どもは鞭(むち)に打たれることなく育てられ、読み書きを教えられ、子どもは大切にされてきた(大切に、ということでは西洋でもどこでも同じだろう)。

──子ども文庫の規模や全国的な広がりを見てきて、筆者が何度も想起したのは江戸時代の庶民の教育機関であった寺子屋である。各地の文庫を訪ねていると、地域の教育者とも呼びたい人に多く出会い、これらの人々にかつての手習いの私塾、いわゆる寺子屋の教師を重ねずにはいられなかった。(295頁)

 石巻市北上町十三浜大室(じゅうさんはま・おおむろ)に伝わる伝承芸能・大室南部神楽で舞う子どもの神楽に、私は出会った(2014年)。ここで鉦(かね)をたたき、太鼓をうち、謡った長老たちはその幼少期、すでにこの地に私塾があったという。子ども文庫ではなかったが、伝承芸能を伝える練習が週をまたがず続いたという。震災と大津波は伝承の神楽を呼び覚ました。

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 上述「1」で、「子ども文庫」をとりまく子どもたちの現状に危惧することを記したが、子どもたちに起因する変化が生じているのではなく、おとなが為し、おとなが辿り着いて得た社会現象だ。他でも論じる予定をしているが、1960年代に子育てを変質させる端緒に陥り、今に続いている、と私はみている。それから年数を数えれば50年余のことである。本書でも言及し、辿り着いている結論を尊重すれば、神楽の伝承を現地で学んだ身としては、そして、「子どもの文庫」を再生させることにおいても、ここでくじけてはいけないと思う。

山田利行 2019.1.10記す
▶子育ての確からしさを考える
▶“The Renaissance of Childhood” Project 子ども期の、再生(ルネサンス)

  • 改訂履歴
    • 2019.5.27 改稿
    • 2019.1.10 初稿