寺子屋とは、そして私塾へ

 江戸時代、中央集権制度はまず五街道(東海道・中山道・日光道中・甲州道中・奥州道中)の整備からはじまる。そして参勤交代制度が、江戸と諸国間の交流をうながした。かくて生産の上昇、経済の発展につれて商品が流通しだすと、庶民も簡単な数字や文字の知識が必要となる。その要求に応えたのが寺子屋だ。
 もとは室町時代に、寺院が世俗教育を施したことにはじまる。このときの生徒を寺子といったとことから寺子屋という名称になったが、これはおもに上方の呼称で、江戸では単に手習(てならい)師匠といっていた。亨保(1716-35)頃から開業がふえはじめ、天明・寛政期(1781-1800)に飛躍的に増加し、文化・文政(1804-29)頃に、庶民文化が花と咲いたのも、この寺子屋での教育が普及していたからである。幕末には全国で1万5千とも2万ともいわれ、これが明治の学制令による小学校設立をおおいにたすけた。

今野信雄 1988年『江戸子育て事情』p52 第4章 寺子屋風景 より

──全国に2万という数字がみえる。都市部中心とすれば、市街地どこにでもある状態。農村部でも人口集中場所には存在すると思われる。「2万」は全国サービスを目的とする場合に到達する数字なので寺子屋は既知の状態と思われるが、義務教育でないので”サービス”を受けられる・受けている人たちは限られていると思われる。(2018年5月1日現在の学校基本調査では「小学校」の数は1万9892校とある。郵便局の局数は2019年2月28日現在で2万0066が数えられる)

 こうした「……往来」と称した教科書は実に多い。江戸時代に七千種というから教科書には事欠かず、

同 p54

 寺子屋は女子にも門戸を開いていた。「女なんかに学問はいらねえ」などといったのは、皮肉なことに明治になってからである。ただしあくまで男女は別で、共学ということはあり得ない。なにしろ男女七歳にして席を同じうせずの時代である。

同 p62

 ところがこの寺子屋教育は、江戸や大坂の大都市の町人に限らない。都会よりも多少おくれるが、農村でも幕末にいたるほど旺盛だったのである。

同 p65-66

 もっとも、寺子屋は明治5年の「学制令」及び、12年の「教育令」によって、徐々に公立小学校へ衣がえせざるを得なくなり、従来の読み・書き・算盤の他に、理論的な算術法、文法、修身、養生法、唱歌、体操等の課目が加わってくる。つまり西欧式教育法に移行するのだが、寺子屋で教育を受けた親たちは、こうした新制度による利点をなかなか理解しようとせず、とくに女子の体操授業などは「あられもない!」と猛反対する有様だった。親にとっては、口に糊するためには寺子屋で覚えた知識だけで充分であり、長年同じ土地に住み、盆暮の挨拶をし、相談事があればいつでもかけ込んでいた手習師匠は、もはや他人ではないのである。福沢諭吉が「学問とは唯むずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上の実のなき文学を言うにあらず……(中略)……専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」(学問のすゝめ)と説いたのは明治のはじめだったが、庶民の感情としては、やはり寺子屋式教育で充分だったのである。

同 p67

 寺子屋でひととおりの読み、書き能力を身につけた子供は、早々に丁稚奉公に行くか家業を手伝うことになるが、そこまではいわば初等教育。それ以上の教育を受けようとすれば私塾にかよわなければならない。それ以上の教育とはつまり四書五経の学問の手ほどきである。

同 p72

山田利行 2019.3.7 引用および注記する
▶子育ての確からしさを考える
▶“The Renaissance of Childhood” Project 子ども期の、再生(ルネサンス)