障害のある人も、ない人も、暮らしやすい条例

  • 野沢和弘/著
  • 『条例のある街 障害のある人もない人も暮らしやすい時代に』
  • ぶどう社 2007年

 ここでいう条例とは、「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」で、2006年10月11日、千葉県議会で成立した。障碍者への差別をなくすことを唱った、日本で初めての条例だ。

 舞台は、千葉県。
 2001年、無党派に押されて全国3番目の女性知事「堂本暁子知事」が誕生していた。


 2002年、「もう施設には帰らない」というシンポジウムを東京・新宿でやったとき、司会をしていた大熊由紀子さんと打ち上げの席で隣り合わせになった。朝日新聞の元論説委員で、医療や福祉の分野では知らない人がいない高名なジャーナリストである。
 「千葉に住んでいらっしゃるの。千葉県の福祉を変えるプロジェクトに、力を貸してくださらない」
 その前年に千葉県知事になった堂本暁子さんと大熊さんは旧知の仲で、千葉の福祉改革に取り組み始めたところだという。(4頁)

※注釈:この本の著者・野沢は毎日新聞社会部記者として、若者のひきこもり、いじめ、薬害エイズ、障碍者虐待、児童虐待などの現場を取材し報道し続けてきた。「もう施設には帰らない」というこのシンポジウムは、以下の本編とは別のもので、「千葉の福祉改革」に著者自身がかかわることになるきっかけを説明している。

 「健康福祉千葉方式」は、2003年に着手した「千葉県障害者計画」策定から始まり、この計画(報告書)は2004年7月に完成した。

 その中にほんの数行、障害者差別をなくす条例のことが書かれてあった。  「障害者の権利を守るため、国に障害者差別禁止法の制定をはたらきかけ、千葉県独自に同趣旨の条例の制定を検討する」(16頁)

 この「条例づくり」を提案したのが、この本の著者・野沢だった。
 早速 条例づくりの準備が始まり、官と民が協同で取り組む「障害者差別をなくすための研究会」の座長を野沢は引き受けることになった。

 千葉県議会の7割は自民党議員という。知事からみれば圧倒的な野党勢力にもかかわらず、結果として「条例」は成立している。直観的に私は「なぜ?」と思い、成立したことのほうが不思議だった。

 2006年2月、知事は条例案を議会に提出するが激論。継続審議に。
 同年7月、苦渋の修正に応じる選択を決断したにもかかわらず、自民党の戦術が上回り、知事は「撤回」を表明。白紙に戻される。
 同年9月、大幅に修正し再提出。なおも強い反対勢力を押さえて、奇跡的な成立をみる。

(この経過は要約)

 さかのぼって、条例案づくりも平坦ではなかった。
 条例をつくる役割を負った「研究会」では、障碍当事者や法律家そして「障害者だからといって甘えるな」(45頁)と発言する企業家たちが大きな声で意見をかわすものだから、なかなかまとまらない。
 そこへもってきて、県民に呼びかけて「差別事例」を集めたものだから、いやがうえにも議論は白熱する。
 どのようにして研究会のメンバー(委員)を集めたか、差別事例とはどういうものだったか、差別はどのようにして起きるのか、そして障碍者差別をなくすために条例はどうあるべきか──千葉を先例としてこれに続きたいと思うとき、これほど良き参考書はないぐらいに課題整理ができている。
 ところが、「報告書」と思うと違うのである。人物や背景の描写が巧みで、まるで小説を読んでいるようだ。この条例は、役人や議員が作って県民に押しつけるものではない。県民の総意で作るのだ。そんな心情がひたひたと伝わってくる。

 政府の教育基本法改正のタウンミーティングで、やらせ発言や役所による動員が問題になったが、そのような「官製タウンミーティング」とはまったく異なる。千葉県では、各地域で障害種別や立場や世代を超えて障害に関係のある住民が顔を合わせ、手作りで企画を立てる。カンパで資金を集め、一般市民に参加を呼びかけていく。県は資料を用意し、当日に担当職員を派遣して条例の説明をするだけである。ある地域のタウンミーティングが成功すると、それがメールなどで紹介され、次の地域ではさらに趣向を凝らして多くの人を集める。そんな連鎖反応が見られた。(47頁)

 議会で追い詰められ、「撤回」の言葉を口にしてしまった知事は、議員が立ち去った議場に一人残って立ち尽くした。傍聴席を埋めた人びとは知事にエールを送った。「知事、これからもがんばってください!」「私たちがついています!」

 知事に手を振りながら、みんな悔しくて泣いていた。最後のひとりが傍聴席から去るまで、知事は議場にたったひとりで残り、私たちの背中を見つめていた。(122頁)

 この本を読んでいると熱くなることが多い。もうひとつそんな例をあ げよう。

 重度心身障害で寝たきりの妹は、お兄ちゃんに可愛がられていた。そのお兄ちゃんも「学校には(妹を)つれてこないで」と言う。重い障害の妹を見られたら、いじめや冷やかしの対象になるかもしれないと心配だったのだろうか。
 お兄ちゃんが6年生になったとき、ソフトボールで活躍するお兄ちゃんの姿を見せたくて、お母さんは車いすに妹を乗せて応援に行った。
 お兄ちゃんのチームは勝った。そして、チームメイトたちが妹のいるほうへ走ってきた。
 じーっと見ていた子どもたちの何人かが手を伸ばして、妹の頭を撫でて言った。「勝利の女神だね」

(55頁より要約)

 条例が奇しくも成立したのは、多数を占める自民党議員が賛成したからにほかならない。もちろん、研究会のメンバーや知事らが譲歩したからだ。知事の”与党”である「市民ネット」や、社民党や共産党の議員たちは、その譲歩に文句をつけた。しかし、本会議では、

 自民党4人と民主党2人の計6人が議場を退席したが、あとの議員は全員賛成し、満場一致で可決した。(146頁)
 「条例成立がゴールではない。これをスタートにして障害者の差別のない社会をつくっていくことが大事」(145頁)

 じつは、著者(=研究会の座長)は、まったく言葉が話せない重度の知的障碍者の父でもあった。

 私たち障害者の親は、自分が生きている間はなんとしてもわが子の生活を守ろうとする。しかし、障害のある子にとっては、親が老いて死んでいったあとの人生のほうが長いだろう。(150頁)

 条例成立は「障害のある人もない人も暮らしやすい時代」に向けてのスタートライン。この一歩を「勝利の女神だね」と言った子どもたちが受け継いでくれたら、「うれしい」と本書の結びで言っている。

山田利行 2007.3.2記す
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