「自然」という言葉

 「自然」と書いて「しぜん」と読む。

  • 自然な気持ち(素直な気持ち)
  • 自然にまかせる(そのままにしておく)
  • 自然な色(天然色)

 どれも飾り言葉としてつかわれている。「自然」の部分だけの意味を取り出すと、「素直な」「そのままに」「天然の」ということになる。
 さて、たとえば、森、田園、川、海。
 棲息する生きものたち、美しいと感じさせる花の色や姿・かたち、雲、青空、空気、雨、土、匂い、……、それらをひっくるめて「自然」と呼んでいる。「自然とは何か?」と問われたら、これら自然の事物や事象を表す言葉が次から次へと浮かぶだろう。飾り言葉としてではなく、名詞としてつかわれる。
 幼い子どものの邪気のない姿を見て、これを〈自然な姿〉と受けとめることもできよう。いったい、自然とはなんだろうか。
 植物や動物の名前を、たくさん知っていることが自然の認識方法ではない。レイチェル・カーソンは、自然に対する「知識」は大きくなってからいくらでも身につく。幼い子どもに必要なことは、自然のなかで感性を身につけることだといっている。(『 The Sense of Wonder 』)
 〈自然を学ぶ〉ということは、「素直に」「そのままに」とは何かを問うているのと同意で、閉じている(かもしれない)自分を拓いて「自然」を受け入れるということではないだろうか。そして、幼い子どもの姿に自然を見いだすとしたら、「子ども」を受け入れるということにつながり、それはさらに他者を受け入れる学びでもある。

  • ポトルマン 1951年『人間はどこまで動物か』
    • 岩波新書 1961年発行 5頁より

このようにかるがるしく突然変異という言葉をもちまわるのとおなじ精神が、「自然」という言葉の使い方にもみられる。つまり、敬虔な時代には創造主、神の力の行為に帰せられたすべてのことが、今日ではたいへん手近かな(※引用註)「自然」という言葉に帰せられている。「汝、近づきがたきものよ」というおもおもしい呼びかけのかわりに、この言葉の重大さは百も承知されながらも、この「自然」は、今日では言葉のうえでの説明という安価な手段となっている。ちょうどそれは「万事オーケー」と宣言して、われわれにとってこのように未知であり、とざされているこのわれわれをとりまく自然存在の、より深い根底をあたかも知っているかのような幻想をいだかせるものである。

  • 引用註
    • ※「手近かな」……「手近な」のところ原文のママ
    • わかりにくい書き方なので、ポイントを赤色でマーキングしました。
    • 「自然」とは未知・未解明であるにもかかわらず、かつては神の創造物とあがめ思考していたのに、今日では「自然」という便利な言葉を持ち出すことによって、それでわかったような気になっている──という意味。

山田利行 2012.4.11記す
2019.11.30 改稿
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