ことばの保守性を支持する。たとえば、一人称。

 「おはよう♪」と挨拶すれば「おはよう♪」と返される。ことば(会話)は、ことばを掛ける相手に通じることを前提として語られる。これを仮に「ことばの保守性」としておく。

 「ことば」を論じるとき、そのことばのつかわれかたについて変更を求めたり、差異を強調することになる。他人から、ことばの扱いについて、とやかく言われて快いとは思わない。ときには、強い不快感を伴う。それは、ことばには保守性があり、ことばは人格のひとつだからだろう。

 私は「ことばの保守性」を支持している。ことばのつかわれかたの扱いで戸惑うとき、それは自らの保守性を問う作業が始まったからだろうと思う。

 ひとつ例を示そう。自分の呼称、つまり一人称について考えてみる。幼い子どもは、他人が自分を呼ぶその言葉をそのまま自分の呼称につかうことが多い。「あっちゃん」、「まーくん」、等々。小学生になれば、やがて、「わたし」や「ぼく」に変わる。さらに長じて、特に男の場合、第一人称に「わたし」を採用するかどうか、その呼称がふさわしいのかどうか考えたり悩んだりした経験はないだろうか?
 親の呼称もそうで、「おかあちゃん」から「おかあさん」へ、「私の母親です」、「私の母です」等々、ことばの言い換えにはストレスがあっただろうと想像される。

 だから──ことばについて論じるとき、こういう考え方もある──というゆるやかな気持ちで捉えることが肝要かなと思う。

山田利行 2019.5.31記す
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