いのち の かたち for child

 子どもに、いのちをどのようにして伝えたらよいか? それは今も考え続けているのだが、その子どもとは、2歳半から9歳で、その頃の子どもたちは、じつは自身の手に「いのち」を手にしているではないかと気づかされた。
 その手には、石ころ、花、木の実、ざりがに、ばった、棒切れが……。

 いのちと「まるい」は関係があるのだろうか。卵はまるい。あかちゃんはやわらかくまるみがあってかわいい。人間のあかちゃんやほかの動物のあかちゃんもふわふわまるい。おたまじゃくしもまるい。ドングリもまるい。ハスの実はひしがただけど、まるい感じはある。棒切れ、細長いけれど、子どもが好んで手にするとき持つところはまるい。おはじきもお手玉も、そしてコマまわしのコマもまるいなあ。砂浜でひろう貝がらもまるい。砂は、さらさらで気持ちいい。

山田利行 2019.10.30

いのちは、子どもの手に にぎられ、つかまれている。

子どもの手をひくとき、
愛らしい気持ちになるのは、いのちをつかむ……から、か?

こころは、どこにある?

 すべり台の好きな2歳の男児が、そのすべり台の上から下を見下ろして「ドキドキする」と言った。その表現に幼児のこころを発見した思いだったが、ドキドキ=心臓=こころの等式が成り立つ。しかし、こころは心臓にあるのでなく、脳機能の作用だ。
 芥川龍之介の作品『手巾(ハンケチ)』に「婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである。」とあり、それは手に握りしめられていた〈ハンケチ〉が感情を表していた、という話だ。(青空文庫より
 こころと心臓は等号で結べないとしても、こころはどこにあるのか?不思議だ。

母に抱かれて人間となる 2 ノンバーバル編
『非言語(ノンバーバル)コミュニケーション』マジョリー・F・ヴァーガス/著石丸正/訳 1987年新潮社 ※赤字は引用者による 非言語(ノンバーバル)コミュニケーションに学ぶ。 母親と新生児の最初は、すべて触覚によるものである p118-11...

 そして思うに、子どもはいのちを自身の手でつかむ、というふうに考えれば、犬や猫を「かわいい」と撫でるときも、人間のあかちゃんに向き合って手を添え「かわいい」と思わず言ってしまっているその様子からも、ここでは、いのちとこころは等号で結ばれているように思えてならない。
 さらに調子に乗って言えば、子どもに限った場合、手でさわり、ふれあい、にぎったりすることで、こころを受け取り、いのちを感じ、いのちを大切にしようと思うこころが育ち、自尊心の基礎を築き高めることになると思う。

背中の君 棒切れ片手に 十三夜

 この写真は、「背中の君」の母が撮った。夕暮れまで遊んで、お月様が出てきた。背中の君もお月さんを見てる。月と我が子がアングルにおさまった。
 「棒切れ片手に」と情景を描いたが、棒切れと「いのち」、このときは結びつけていなかった。背中の君は、日が暮れるまで十分に遊びきった。つかんでいたい棒切れとどこかで出会い、拾っていた。好きなもの、欲しいものを手にしていると落ち着く。長さもちょうど良かったのかもしれない。背中の君の目線は、お月さんに向けられている。お月さんも、背中の君を見ている。そして、棒切れと背中の君は、ひとつになっていて、そのラインもまた美しい。

山田利行 2019.11.12記す
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