思い出話 22 我が一桁断章

 自己の記憶として、ぼんやりではなく少しの傍証を探してでも事実らしいものを著し、一つは〈一桁〉つまり9歳までの精神史がその後にどのような影響をもつものか、もう一つはその時代を忘れないようにしたいと思って、このシリーズを始めた。1957年から1960年に相当する。戦災復興と別れ経済成長に弾みをつけた東京オリンピック開催は1964年なのでまだ先のことだ。

(2020.1.26)


(一)淡い光

 「記憶の過程」は次の4つの段階で表される。
 ①記銘 → ②保持 → ③想起(記憶)→ ④忘却
 日常会話で「覚えている」や「記憶」は③をさす。
 心理学では①②③④の機序は明快になっていない。しかし、この順序については大勢の支持を占めていて、①②は生得的に身についているが、何らかの理由で想起されないとき、私たちは「覚えていない」と表現する。記憶がないからと言っても、①②が実行されているとすれば、生理的には精神に作用しているのかもしれない。

 私にとって、記憶らしい最も古い起原は、「淡い光」だ。その光は、白っぽい。両親が賃貸で我が家をもったのは私が5歳のとき。その前は大阪の母の実家に居候し、さらにその前は電気工事職人だった父の雇い主の縁で電気店に間借り、つまり住み込みしていたらしい。両親に訊いて、その部屋の明かりが「淡い光」で3歳のときに相当する。1953年頃のことになる。弟が1952年生まれなので、同居だったのかもしれないが一切不明。

(二)アンポハンタイ

 〈一桁〉の最後、9歳は小学3年生の1960年9月だ。これに近い記憶を探った。
 1960年の春、校庭は「♪アンポハンタイ」がこだました。横一列になって腕組みしジグザグデモをテレビでみた通りに真似していた。児童全校数2千人を超えるマンモス校だった。団塊の世代だったからだ。入学した当時は二部授業だった。〈二部授業〉をご存じない方も多いだろう。登校時間が分けられ、朝に登校するのは通常だが、昼前から登校するとき始業の開始は〈給食〉だった。学校に着くと、午前の組がまだ給食中で、教室の窓が曇って(?)いた。

 日米安保条約は1960年6月19日に自然成立した。テレビの普及はまだ一部に留まっていた。電気工事業の父が、どこかから中古のテレビを持ち帰ってきた。入学した頃はまだなかったが、この頃は我が家にあった。番組「番頭はんと丁稚どん」をよくみていた。後年、茶の間の話題を意図的に安保問題への関心からそらすためとも伝えられた。

(三)相撲

 2年生のあるとき、担任が百字帳のようにマス目が書かれた用紙を配った。「知っている漢字を書きなさい」 (しめた)と思った。相撲取りの名前が書けるからだ。
 吉葉山、鏡里。負けの多い横綱だった。安念山。好きな相撲取りで、相撲で遊ぶときは「安念山」だった。さて、あと何があったかなあ。朝潮、鶴ヶ嶺、成山、……。実際、漢字でどれだけ書いたかは覚えていないが、画用紙で星取り表を作り、おそらくラジオを聞いて勝敗を記入したり、新聞の星取り表で穴埋めしていた。
 強いわけではないし、同学年でもHには絶対勝てなかった。駄菓子屋で軍配を買い、ズボンの上から藁でまわしをしたこともあった。バンド(ベルト)をしていないと取りにくいので、相手にバンドがないと文句を言ったものだ。土だけの地面が多かったので、棒切れなどで円を描き、星取り表も書き、4人、6人の男ばかりで遊んでいた。相手が裸足になったら、自分も靴を脱いだ。家に帰ったら、濡れ雑巾が待っていた。
 子どもは裸足になるものだ。そういう思いがあり、おとなも子どもも、ガラスが落ちていたら「あぶない!」とつぶやきながら拾ったものだ。

(四)行列

 道路も遊び場だった。「みち」と呼ぶのが普通だった。ときおり(まさに時折)車が通る。青くみえた排気ガスを吐き、子どもらは「ガソリン、ええ匂い」とその後ろを追いかけたものだ。
 道路での遊びは、電柱(でんしんばしら)を陣地にして鬼ごっこ、野球、べったん。ケンケンパーなどと声を出しリズムをとり○□△を跳ぶ。ゴム跳び。「みち」は舗装されていたのでローセキで○□などを描いた。絵も描かれていた。その数5,6人は普通で10人を超えることもしばしばだった。
 霊柩車が通るときは親指を折り、ほかの指で包み隠した。それだけでは不安でポケットに入れたり背に回して車から見えないようにした者もいた。遊びが止まったのは当然だ。
 あるとき、坊さんが行列を為して歩いてきた。歩道がなかったので、道路の端を歩いてきた。「ウオーーー、ウオーーー、……」と小さくもなく大きくもなく、それが念仏のようであることは幼い子どもにもわかった。遊んでいては歩く邪魔になると思い、休むしかなかった。坊さんたちは一列で、個別の間隔が長い。10メートルはあったただろう。もっと長い間隔もあった。前方も後方も遠い先まで並んでいる。30分はかかっただろう。もっとかかっていたかもしれないが、わからない。遊び場所を変えたりして、しばらくして戻ってくると「いない!」と叫んだものだ。
 後年知った。神戸市兵庫区五宮町の山麓にある祥福寺の僧だった。たぶんだが11月末に厳しい修業に入る前に行う行列で、12月末に終わったときも行う。そうとわかれば行列の歩く向きが違っていた。

(五)犬とり

 野犬が多かった。遊び集団の中に「まる」がいた。やや大型犬の雑種で、毛が長く皆に可愛がられていた。犬とりが来たら、皆で騒ぎ、隠した。当時は繋がない飼い犬が多かった。ウンチもあちこちにあったが、その中には馬糞もあった。有馬街道に近かったので、たまに荷物を引く馬に出会った。目前でウンチをすることもあった。馬のウンチを踏むと足が速くなるというので、ウンチの端を踏みに行ったものだ。
 犬とりは怖かった。野犬よりも怖い記憶だ。今思えば、そういう職業に同情する気持ちがわくし、複雑な気持ちになる。黒い服を着ていたかどうかは別にして、犬とりは黒い服のイメージがある。輪にした針金を首にひっかける。怖そうな野犬が「キャン」と鳴く(泣く)。強引に針金を引っ張り、トラックのようなものに乗せられた。
 ドブネズミも多かった。こちらは捕まえると、仕掛けごとドブにつけた。ネズミは昇天する。子どもは、こちらは平気?でしていた。そのドブには、イトミミズがいっぱいいて、底でゆらゆらし、人影が近づくと動きをとめて息?を懲らしていた。台所から流される排水の台所洗剤や洗濯機からの合成洗剤のせいだろう。イトミミズは全滅した。

 野犬の盛りも多く見た。繋がれていなかった証拠といえる。そして、水をかけられていた。犬の体色が黒い。色の記憶が消え、その情景が強いからかもしれない。表現としては頭を東西に向け、お尻同士が糊でくっつけられて離れられず、東が前進すれば西は後進している、そんなケースも見た。子どもなり(小1・2レベル)に犬たちがかわいそう、あるいは不思議でやや怖い光景だった。性行為と知ったのは、小学高学年になってからだっただろう。

(六)集団と餓鬼大将

 小学校に入学して嬉しかったことは餓鬼大将率いる集団に入れてもらえることだった。大倉山に粘土を取りに行った。粘土取りによい場所があって、その規模や詳細な場所は覚えていないが、確かに取り放題だった。粘土でパチンコ大の玉を作る。それを乾かす。すると硬い礫(つぶて)になる。礫は武器だ。原っぱで敵味方に分かれ、原っぱは身を隠すだけの草がぼうぼうだった。礫を投げてぶつけあう演習があった。演習はイヤだった。当てられたら痛いし、泣いたら大きいお兄ちゃんに怒られる。みそっかすは投げる真似をしているだけで相手に届かない。ズボンのポケットには礫がいっぱい入っていた。演習というのは別の子ども軍団と喧嘩する用意だった。しかし、その喧嘩の体験記憶がない。喧嘩のときは、私らみそっかすを外したのかもしれない。
 その原っぱで、あるとき、深い落とし穴を作った。大きなお兄ちゃんが胸辺りまですっぽり入るほどの穴を掘り、穴を土で埋め戻し、水を入れてどろどろにし、その上に刈った草をかけた。できあがったとみるや「××を呼んでこい!」と命令が下った。××が姿を現した。数メートル離れたところから穴に向かって「歩け!」と命令された。××にはその前方に穴があることは見えていた。そして、進み、ずぶ濡れになった。「帰って洗って来い!」
 どうしてそんなことをしたのか。されて泣くこともなく従うのか。まったくわからなかった。餓鬼大将の順位争奪だったのだろうか。暴力的にもみえる集団だったが、よく遊んでもらった。女の子が交じっていたのか、居ないように思える荒っぽさだが、その実際は記憶にない。おとなが関わっていなかったことは確かだ、たぶん。勉強会もしてくれた。もちろん、何を勉強したかは一切覚えていないが、広い土間で椅子に座り机らしきものに向き合っていた。クリスマス会もあったように思う。「子ども会」もあったが、自治会長などおとなが関与していたので別物だった。
 とにかく子どもが群れていた。しかし、餓鬼大将中心の集団はこれを境に消失した。なぜなら、私を含む私たちが集団を率いたことはなかったからだ。童話の世界のようなことが現実にあった。

 ところで、遊びや子どもの発達を研究している私は、「餓鬼大将」の定義として年齢の上限はないのだろうかと、これを回想して気づいた。一つは、当時の餓鬼大将は中学生の制帽を被った頃から消えていた。おそらく6年生から中1初期の年齢だっただろうと思う。餓鬼大将ではないが、大縄跳びやはないちもんめで遊んでくれたやさしいお姉さんたちも6年生ぐらいだったような気がする。おとなの入り口に入りかけた6年生が、年下の子らの面倒をみる地域社会がかつては存在したということか。

(七)トンボつり

 大倉山の南端には中央図書館(神戸市立)があった。児童室のおばさんは優しい人だったけれど、一般書受付のおじさんは怖かった。裁判所判事のような服を着ていた、ように思う。当時は延滞すると一日当たり10円をとられた。初めて利用したのは〈一桁〉ではなかったかもしれない。大倉山での思い出は多い。戦争の匂いが残っているところで高射砲台地があったし、戦後復興の市営住宅もあった。
 学校から帰ると急いで大倉山へ向かう日もあった。トンボを採る場所取りのために。「ぶりぶり」と呼び習わしていた道具でトンボを採った。50センチ程度の糸を用意し、その両端に小石を結びつける。片方の石を持ち、糸が回転するよう上空に投げる。クルクルと回るとその中心にトンボが飛び込んでくる。おそらく虫に見えるのだろう。カラカラと音を立ててオニヤンマが落ちてくる。ギンヤンマが採れることもある。
 ほどよい距離を経て、ほかの少年もぶりぶりを飛ばしている。トンボが飛ぶコースに合わせて放り投げる。ぶりぶりを飛ばす手とは別の、手の指に、先に採ったトンボが挟まれている。指の間に羽を挟む。自慢するように指に挟む。これを「トンボつり」と言った。
 タマムシは高い木の上にいた。これは、木の幹を強く蹴ることで、上から落ちてきて、わけなく拾える。雄は玉虫色で宝石の輝きだ。セミは竹の先につけた鳥もち(駄菓子屋で売られていた)で採るのが友達だったが、私は、金魚すくいのような針金の枠にオニグモの巣を巻きとって真っ白になった網で採っていた。キリギリスは草の先にコオロギをくくりつけギスの前にぶらさげて釣った。ギス釣りと言っていた。スズメは仕掛けや石槍(パチンコ)で採っていたが、傷ついて死なせてしまうことが多かった。つまり、網をふりかざして採るというのは、網が高価だったこともあって、虫とり=網ではなかった。

(八)かたびら

 幼少時、夏は田舎(網干)に住んでいた。「夏」と限定したけれど、小学生は夏休みがあったから。ところが、小学生未満ははっきりしない。幼稚園のときは夏だけだったかもしれないが、どうやらそれ未満は田舎に預けられていたらしい。母に尋ねると3歳から親元を離され田舎暮らしだったらしい。物心ついた頃、なぜかいつも婆さんと一緒だった気がして不思議だった。
 クマゼミを田舎では「かたびら」と言っていた。神戸で友達がクマゼミと言うので不思議だった。田舎のお兄ちゃんは、杉や檜のように直立した木を、のぼり棒を登るように足を巧みにつかって上がり、かたびらを手づかみして採ってくれた。網をそっと近づけると気づかれて逃げられるのに、お兄ちゃんは逃げられることもあるが、仕留めることも多い。幼かった私は、ニイニイゼミを手づかみでとっていた。手づかみできるトンボも多かった。
 「どんきゅ」と名付けられていたのはドジョウ。ドジョウは頭からつかむと逃げられない。そのとき「きゅ」と鳴く。「たぶな」と呼んでいた小魚が多くいた。タナゴのことだろうか? 「きび」は、とうもろこしの別名が唐黍(とうきび)だったからか、または、サトウキビのこと。「まっか」はマクワウリの訛。ササゲ、アズキはそのまんま通じる。
 先ほどの「かたびら」は僧が着る衣装で、帷子(かたびら)と表し、透けて見えるひとえものが起原らしい。クマゼミの羽が透明で透けて見えることからなぞらえたようだ。
 サトイモの葉は大きく、私の背はそれより低かった。葉の下をくぐって畑の畝を渡っていた。カエルも跳んだ。その葉の上を水粒がキラキラと転がる。水粒と遊ぶ自分を幻想的に思い出す。もしこの記憶が3歳または4歳だとすると、人は何によって育つのか、考えさせられる。そこに神がいても不思議はない。

(九)死

 井戸水で使用した水を溜めておく場所があった。野井戸というのだろうか。田舎滞在中、小学1、2年生だった頃、野井戸のあった庭の隅で虫取りに夢中だった。落ちてしまった。「臨死体験」に定義はあるのだろうか。落ちてもがいた。真っ暗だった。がぶがぶ汚い水を呑んだ。手を夢中になって動かしていた。そして、引っ張り上げられた。なぜか記憶として思い出せるが、錯覚かもしれない。数秒のことか、長くても10秒、20秒までだろう。そうでなければ助からなかったはずだ。野井戸は庭の外れにあり、家の近くとはいえ、よく見つけられたものだ。水の音は聞こえたかもしれないが、奇跡的に助けられた。

 至急電報をウナ電という。チチキトク。母は震えていた。それだけで異常に気づくことは十分だった。チチの臨死場面に移る。その移動や時間的経過は覚えていない。小学1年生のときだった。母は私を21歳で産んでいる。だから、爺さんとはいえ、50代だろう。大工職人だった。嫁入り道具のタンスも鏡台も爺さんが桜材で自作した。建具も工作できる人だった。その日、風邪で受診したとき、ペニシリンをうった。そして急変した。ペニシリンショックだ。
 爺さんは泡を吹いていた。血が混じっているのだろう。茶色の泡が絶えず口から流れ出ていた。自宅で横たわっていた。枕元の医者はこわばり震えていた。6人きょうだいの2子が母で、皆若い。叫ぶ、泣く。壮絶な場面だった。1年生の私も、何が起きようとしているのか、わかった。私は目を凝らし、爺さんを見、周囲を見ていた。泡がひき、したたり落ちるそれが止まった。爺さんは息をひきとった。死の体験、その最初は壮絶だった。長かったように思うが、その経過時間はわからない。

 田舎暮らしのある日、線路脇(国鉄、網干・竜野間)の細い道、泥道にもなる道、でこぼこの道を、婆さんと私の二人で歩いていた。婆さんも50代だっただろう。甘えて抱っこをねだった。婆さんは私をおんぶした。5歳か、6歳か、その頃だ。数歩だったろう。歩いてすぐに婆さんは何かにつまずき、倒れた。婆さんの顔面、真っ赤になった。ボタボタ血が落ちる。石か何かに顔面をぶつけたのだろう。悪いことをした! 強く思ったことを思い出す。婆さんの鼻の下に盛り上がった治療の跡が残った。それを見るたび、罪作りの気持ちになった。

(十)本

 「読み聞かせ」という文化は我が家にはなかった。母は手芸の型抜き用に雑誌の付録だけを買っていたようだ(なぜか付録だけを売っている店があった)。それ以外に本の文化はなかった。家には一冊も本・雑誌は無かった、と思う印象は強いが、正確でない。
 トラがぐるぐるまわっているうち、速くまわりすぎて、バターになったというシーンをぼんやり覚えている。幼稚園でキンダーブックを購入していたのでその影響かもしれない。だとすれば、5歳頃だろう。「ちびくろさんぼ」のお話しだ。
 次の記憶は、赤い表紙の、アンデルセン童話集だ。入学祝かもしれない。夜中に、おもちゃ箱から飛び出す話を(こわい・こわい)と思いながら読んだ。読み聞かせではなく、独力で読んだ、と思っている。「マッチ売りの少女」では、イブの日にマッチをする少女にシンクロしていた。「みにくいアヒルの子」では、黒いばかりにいじめられていたアヒルの子が真っ白で大きな白鳥になって現れたシーンが痛快だった。とはいえ、こうした感想は正確ではない。そういう記憶は、後年になって変質したのかもしれない。
 近所に貸本屋があった。1日10円だった。何かを借りただろうが、覚えているものがない。小売りもしていて小学館の学年雑誌をとっていた。それも何年からとり始めたか、それも記憶にない。学校では学研からの「○年の科学」を毎月買っていたが、これは〈1桁〉を超えてからと思う。学校の図書室での記憶もない。市立図書館の利用はこれも〈1桁〉を超えてからと思う。
 本とは縁がなかった。と言いながら、小学4年生、9歳から10歳にかけて「理科事典」の一冊は使い倒した。このことは次回に記そう。

(十一)生涯で一番勉強したのは、小学4年生

 小学生はシール貼りが励みになったりする。自由学習の褒美でシールをもらった。小学4年生のときで、競争相手が一人いた。ダントツ2人のレースだった。シール欲しさに自由課題が思いつかなかったときは、漢字百字帳について新しいノート1冊を1日(夜)で埋めたこともある。父が夜なべをしてデスクワークしていたとき、子どもの私も机に向かっていて「はよ、寝~よ」と言われるほどに遅くまで頑張っていた。
 自由学習のメインは「理科事典」を写すことだった。小学生用の事典だから多くの絵、図、表があり、解説文とともに画用紙に書き写していた。仕上がりは数枚になっていた。目の解剖構造はこのとき覚えた記憶はあるが、ほかで具体的に何を覚えたかはやはり記憶にない。しかし、事典をほぼ1冊全部(写すところがなくなったか、関心的選択をしている可能性は否定できない)対象にして写したことや、学習する時間をシール欲しさとはいえ、大袈裟かもしれないが子どもなりに限界に挑戦していたと我が事ながら思う。
 勉強、自分の学びというのは、おとなであればテーマが優先順位の上位になるだろうが、学習に向かう「時間の長さ・量」は自身の可能性を発見することになるのではないかと思う。自由学習の提出は競争相手もあってほぼ毎日行っていたから、前期高齢者となった今、生涯で最も勉強したのは、小学4年生のとき、9歳から10歳のときだった。

(十二)不思議な、本との出会いと「死」

 小学3年、9歳のときだった。夏休みに母の実家、大阪に居た。朝日新聞朝刊第一面の下、サンヤツという広告欄に『長崎の鐘はほほえむ』を目にし、叔母に「この本が欲しい」と言った。叔母は新聞を切り抜き、梅田にある阪急百貨店の書籍売り場に連れてってくれた。切り抜きを店員に見せ、本を買った。鮮明な画像ではないが、その広告を指し示したこと、書籍売り場の賑わいが脳裏に浮かぶ。明らかに子どもが読む本ではない。広告の訴えになぜ呼応したのだろう。我が事ながら不思議でならない。

 著者は、長崎の被爆で知られる永井博士の子息、兄・永井誠一、妹・永井茅乃だ。読めない漢字ばかりで、片端から叔母に訊いては鉛筆で振り仮名を書きこんだ。しかし、そのすべては読めなかった。そして、136頁の終わりにある「口びるをつたって水は外に流れ出てきました」の部分を何度開いて見入ったことか。偶然この頁を見つけたのだろうが、事の重大さを悟り、幾度も頁を開いたことを、これはなぜかしっかり覚えている。

 周辺のおとなが誘導したのではないと思う。なぜなら、「えっ、こんな本、読みたいの」とでも言うように不思議がられていたからだ。買うことにつきあってくれたものだ。奥付をみると280円とある。当時は印税のために判子「永誠」も押されていた。写真は後年になって古本を入手しスキャンしたもの。


(十三)貧乏物語

 自己の記憶として、ぼんやりではなく少しの傍証を探してでも事実らしいものを著し、一つは〈一桁〉つまり9歳までの精神史がその後にどのような影響をもつものか、もう一つはその時代を忘れないようにしたいと思って、このシリーズを始めた。1957年から1960年に相当する。戦災復興と別れ経済成長に弾みをつけた東京オリンピック開催は1964年なのでまだ先のことだ。
 経済成長は「豊かさとは何か」を問うことでもあった。小学4年生の夏休み、神戸新聞の小さな記事「少女、家に帰らず」(事件のあった日、記事の見出しは仮。後日に詳細を調べたいと思っている)を見た。記事中に「水玉模様のスカート」とあった。(えっ!見た!見たぞ!あの子や!)朝、その場所を探しまわった。出会った友達も一緒に探した。近所に原っぱがあって、子どもたちの遊び場だった。冬なら、夕方、焚き火をして近所のおとなたちがゴミを焼きながら暖をとっていた。どこかの大工の資材も積まれていた。その材木の中に少女がいた。同じ学校、同じ学年の男友達の妹だった。
 2年生だったと思う。新聞配達で配りきれず怒られるので帰られなかったという。少女を我が家に連れ来て、朝ご飯を出したら、無言でパクパク食べた。ここまでは覚えている。しばらく時間が経過して午後、先生がやってきた。「お手柄やったね」 何事かと思った。手柄が欲しくてしたことではない。水玉模様なら昨日の夕方ここに居たの信念で探したにすぎない。しかし、これからが大騒ぎになったように記憶する。事の一大事になった。
 言うまでもないが、2年生の少女がこの時代、まだ働かされていたのだ。少女のおよその家もわかっていた。有馬街道筋の山奥には、粗末な家がたくさんあった。戦災孤児の寮もあった。目撃した程度のことだが、港町神戸に艀(はしけ)だまりがあって、たくさんの小舟がひしめきあい、つながれていた。舟から舟を器用に渡る子どもの姿があり洗濯物が干されていた。

(十四)三角ベース

 巨人長嶋、国鉄金田、西鉄稲尾、「おう、かねだ、ひろおか」と流行語を口ずさみ野球は子どもたちの遊びだった。さすがに9×9のメンバーは揃わなかった。ふだんは三角ベースが主だ。ということは、キャッチャー抜きの6人だった。メンバーが増えたら、外野に1人だったかも。9×9を集めて野球をした場所は、まだ空き地だった神戸市立中央体育館の場所だった。
 場外に球が転がって、市電のポイント切り換えまで取りに行ったとき、動き出したポイントに靴がはさまった。走るクルマの隙間を縫って球を取りに行けた。別グループも野球をしにきていて、そこから飛んできた打球が男の急所に当たりすっ飛んだ。死ぬかと思うほどに息が出来なかった。「だいじょうぶか」の声は聞こえたけれど、大笑いしていた。後者事例は〈一桁〉を超えていたかもしれない。
 当時は県病と呼ばれていた現在の神戸大学病院の庭でも野球をした。患者さんもニコニコ観覧、仲間にも入ってきたように思う。近所でするときもそうだったが、バットや棒で撃つことはなかった。飛んでガラスを割ってしまうからだ。手を拳にして撃った。だから、ボールはやわらかい。グローブもいらない。グローブに手を入れたのはずっと後のことで、だから〈一桁〉を超えてからだと思う理由になる。

(十五)三角紙と跳び箱

 三角紙にチョウだったかトンボだったか、挟まれたままを見つけた。他人事(ひとごと)ではなく自分の仕業だ。5年生のある日のこと。三角紙とは昆虫採集の際、羽が傷まないように包むものでパラフィン紙で出来ていた。虫は好きだったけれど標本作りは熱心でなかった。その頃、何か思うことがあったのだろうか。(虫を殺すのはやめよう)と決心したことをしっかり覚えている。5年生は10歳のときだ。
 平野の交叉点に信号機が設置された年(1960~1962年頃)でもある。平野は、有馬街道と神戸の市街が接するところだ。ダンプカーが頻繁に通り、地面を打つ槌音が絶えずまちなかでしていた。お巡りさんの笛に合わせて、交通当番をしていた。社会を知るきっかけだったかもしれない。
 虫への関心は急速に薄れた。小学校では児童会と呼ばれていたが、校内新聞でガリ版をさわるようになった。担任が休みだったこともあって、体操の時間に大好きな男の先生、ナガシマ先生が来てくれた。1段も飛べなかった跳び箱で、8段を跳ぶ課題になった。端から、両方の手は宙をつかみ砂場へ頭から落ちた。(跳べた!)転げ落ちた瞬間、何事が起きたかと思ったが、痛かったことより飛び上がるほどに嬉しかった。2回目は跳び箱の天で手をつき尻をひっこめ飛び越して着地。低くしても跳べなかった跳び箱で8段をいきなり跳んだ。殺すのをやめようの決意、跳び箱、どちらが先かわからないが、10歳つまり〈一桁〉を通過する意味がそこにあるのかもしれない。

(完)

山田利行 2020.1.26記す
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