SDGs事始

〈SDGs〉── 地方自治体で流行のようにもてはやされていますが、これを理解することは、けっこうむずかしい。そして、最近(または近年)になって提起された課題でもありません。

  1. 『自然破壊黒書 1』全国自然保護連合/編 1974年刊
  2. 神戸新聞社『兵庫探検』1970年代
  3. あきかん〈アカン〉まつり 大阪・生野区 1993年~
  4. 複合汚染と共同購入 1974年頃
  5. 福岡賢正『たのしい不便』2000年刊
  6. 目標SDGsは、平和を希求すること(まぼろしの10年 1945年~)
  7. この道 北原白秋 1885年生~1942年没
  8. 自然教室の始まり 1970年代初期
  9. 「子育て支援」が社会保障制度に組み込まれた 2015年

1: 『自然破壊黒書 1』全国自然保護連合/編 1974年刊

『自然破壊黒書 1』に「1」とありますが、続編は出版されなかったと思われます。

 当時、「○○の自然を守る会」などと称する団体は全国に800を超えていたとされています(当時の新聞報道を記憶しているのみで検証要) 60年代後半の水俣病訴訟など四大公害訴訟が提起されるなか、一方、大学での学生運動のあと、自然や環境を守ろうとする市民活動が草の根のように広がっていました。SDGsを環境問題から捉えるとき、1970年代当初の歴史的な動きを忘れてはならない、あるいは念頭におき検証も必要かと思います。1974年発行された『自然破壊黒書』には「自然保護の歴史」として7ページの検証が掲載され、全国自然保護連合が結成されるまでの歩みが、西洋の産業革命や近代化の軌跡も辿りながら記されています。

 本書が著された1972年(1974年/発行)頃は、「環境問題」ではなく「自然保護問題」の呼称が一般的であった。

  • 1970年4月22日 アースデイ集会がアメリカで初めて行われ、これが世界に、日本に広まった。
  • 1971年7月1日 環境庁発足(2001年1月より環境省)
  • 1971年10月20日 全国自然保護連合が結成される。
  • 1972年6月5日 国連人間環境会議(ストックホルム会議)
    • これを記念して、「環境の日」が6月5日に定められた。
  • 1972年7月6日 佐藤栄作内閣総辞職。翌7日、田中角栄が内閣を組閣する。

2: 神戸新聞社『兵庫探検』1970年代

 神戸新聞社は、1970年代に「兵庫探検」を標題にし、紙上にて企画報道後、6巻にまとめて刊行されました。

  1. 兵庫探検 民俗編 1971年
  2. 兵庫探検 自然編 1974年
  3. 兵庫探検 歴史風土編 1975年
  4. 兵庫探検 続歴史風土編 1977年
  5. 兵庫探検 近・現代編 1979年
  6. 兵庫探検 総集編 1981年

 この叢書は、郷土資料として極めて重要で貴重ですから、兵庫県内の公共図書館は所蔵されているでしょう。自然編の「あとがき」に──兵庫県という一文化圏をさまざまの角度から”探検”し、日本の中に位置づけるとともに、それを通して日本とは、日本人とは、を問い直そうという目的でこのシリーズは始められました──とあります。いわば兵庫の”宝”を発見しようとする試みだ。SDGsは盛りだくさんでどこから手をつけてよいか戸惑いを感じるが、この6巻に集成された宝を後世に伝える必要に気づけば、人それぞれ関心のある分野を手がかりにして実践してみようと気が向くのではないかと思う。過去の資料群ではなく、今こそ再読の機会が求められる適書群と思う。

3: あきかん〈アカン〉まつり 大阪・生野区 1993年~

1982年「あきかんまつり」で始まり
1993年「あきかん”アカン”まつり」となり
1996年(一時、休み)となり
その後に再開
2004年、11回目を最後に、惜しまれながら終わりに……
1年間、この祭りのために集めている人たちがいた。
大阪市生野区・勝山南公園にて

あきかんアカン、なんで、アカンやのん
はじめは あきかんまつり というなまえでした。
それに アカンが はいりました。
アカン、って なに?
◎あきかん・ペットボトルが、いろんなところに ころがっている。ので そのままにしてたり、すてたり しとるんやね。こりゃ アカンやろう。
◎「あきかんはリサイクルへ」と ジュース・ビール会社さんはいう。でも、ジュース・ビール会社は、あきかん・ペットボトルをあつめてない。リサイクルもしてない。ずっこいなあ アカンやろ。

 集めた空き缶は売って活動資金にもしたが、なんと、ジュース・ビール会社さんへ持ちこんだこともある。

4: 複合汚染と共同購入 1974年頃

 1974年10月から翌75年6月まで、朝日新聞の連載小説として有吉佐和子『複合汚染』は大きな反響を呼び、安全な食品を求めて共同購入が市民運動として広まった。カビの生えない食品に疑問をもったり、曲がったキュウリは市場に流通しないのでおもりをつけてまっすぐにするとか、レイチェル・カーソン『沈黙の春』もあわせて話題となった。
 食品を燃料(石油)で運ぶのでなく、地産地消を目標とするようにもなった。しかし、食糧自給率の低さは批判や反省があったものの、低下する傾向は止まらない。子どもたちのため、その未来を保障するため、農地の減少・荒廃、海洋汚染に歯止めをかけることは必須課題だ。地球温暖化ストップなど全世界規模にまで波及した取り組みの嚆矢は共同購入の始まりとも共通する。その先進地の一つは神戸・阪神地区であった。
 かつては環境汚染の指標だったが、今日的には生物界多様性への理解と認識に発展し、人類を含めた地球上すべての生きとし生けるものとの共存をめざすまでになった。人類の生産活動・経済活動は、地球を汚染しないこと・稀少生物の生存を脅かさないこと、を前提にして検討するまでになった。

5: 福岡賢正『たのしい不便』2000年刊

本の紹介
“不便”を実践した新聞記者の体験ルポと「消費社会」を考える対話集
『たのしい不便』福岡賢正(ふくおかけんせい著) 2000年 南方新社

 副題は「大量消費社会を超える」。著者は毎日新聞の記者。1998年、記者は自らと家族を対象に、消費を断ち切る”不便”を開始し、その実体験ルポをその1月から12月まで毎月1回紙上で連載した。本書前半はその再録。その翌年、この体験を踏まえ、「消費社会」を問う対話連載が同じく12回行われた。それが本書後半部。対話者は次のとおり。

  1. 野田 知佑 (のだ ともすけ)
  2. 重松 博昭 (しげまつ ひろあき)
  3. 山尾 三省 (やまお さんせい)
  4. 駄田井 正 (だたい ただし)
  5. 前原 寛 (まえはら ひろし)
  6. 森崎 和江 (もりさき かずえ)
  7. 歌野 敬 (うたの けい)
  8. 内橋 克人 (うちはし かつと)
  9. 吉岡 斉 (よしおか ひとし)
  10. 森岡 正博 (もりおか まさひろ)
  11. 山本 哲士 (やまもと てつじ)
  12. 見田 宗介 (みた むねすけ)

 記者はそれまでの電車通勤を「自転車通勤」に変えた。片道13.5km。所要時間は1時間弱。「のどが渇いたらチャリン、コーヒーでリラックスしたくなったらチャリン、甘いものが欲しくなったらチャリン、と日に何度も自動販売機にコインを貢いできた」(19頁) これもきっぱりやめる。弁当持参と決めたからには、妻には頼まない、自分で作る。などなど、ほかにもたくさんの誓いを立てた。
 記事は月1回、しかし”不便”は毎日。妻そして子どもたちとも話し合い、とりあえずの了解は得た。しかし……。
 当初から家庭菜園はメニューに入れてあったが、6月、米を自給すべく田仕事に挑戦。読者である私は”無謀だ”と思った。にもかかわらず、アイガモ農法の普及に取り組んでいる古野隆雄さんの指導を受け、なんと3アールで玄米にして3俵(180kg)の収穫だった。
 しかし……。不便を家族には強制しなかったつもりだったが、「こんなんじゃ、きついばっかりでちっとも楽しくないやんね。病気した時くらい楽しんだらどう。そうしないと私たちまで息が詰まる」(31頁)
 「××潜入ルポ」なら派手さを感じるが、体験談は地味だ。だが、読み進むうちに、記者の”不便”を楽しむさまがひしひしと伝わってくる。これはすごいルポじゃないか? 掲げた”不便”を見直して、取り下げた不便もある。「原則的に残業しない」も不便の一つで、労働に対する視点も忘れていない。モノだけの不便でなく、社会へも向けているところがこのルポのすぐれているところだろう。その視点は、12人の対話の中で展開されることになるが、論客ぞろいで示唆に富む。
 2000年1月17日 記者は勤務を終え、いつものように自転車で自宅へ向かっていたとき、オートバイに跳ねられ意識不明の重体に陥った。生死の境をさまよいつつも、一命はとりとめた。妻の看病に記者は涙を流した。「オレが喜ぶこと、それが彼女自身の喜びでもあるからだ。そこまで思いいたった時、私は涙をこらえきれなくなった」(318頁)
 不便の到達点は「喜び」にあり、対話で解きほぐされる”論理”は奇しくもそれだった。だから、”たのしい不便”なのか……

(この項、2001.2.23記す)

6: 目標SDGsは、平和を希求すること(まぼろしの10年 1945年~)

 私たち小学生の頃(1960年に至る前)雨が降ると「放射能の雨」と叫んで急いで傘をさしたものだった。遡ること1954年9月23日、久保山愛吉さんが亡くなった。第五福竜丸の通信士として乗船していた久保山さんほか多くの乗務員は、航海中のビキニ環礁でアメリカが行っていた水爆実験の”死の灰”を浴びた。それから半年後の死亡だった。新藤兼人監督作品になる映画『第五福竜丸』を観て驚いた。監督は史実を忠実に再現したとクレジットで言う。久保山さんが東大病院で亡くなり郷里の焼津に帰る列車に対し、沿線で見送る人たちが頭を垂れた。途中停車する駅で高校生と思われる生徒が花束で見舞った。当時の「日本」を発見した思いだった。機会があれば、ぜひ映画を観て欲しい(私はビデオを持っています。お貸しできます)
 広島、長崎の被爆に重ねて、水爆実験による被爆死。これによって、1955年8月、6日に広島で、9日に長崎で、第1回の原水爆禁止世界大会が開かれた。さらに遡ろう。1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦を迎えた。その後、主権を国民に認めた日本国憲法が公布された。「民主主義」とは何か。国民は平和を求めた。
 敗戦1945年から第1回原水爆禁止世界大会の1955年までの10年、真に平和を求めた日本があった。しかし、正確には、1950年に朝鮮戦争が起き、米ソ冷戦が本格化し、警察予備隊は自衛隊に改編されてしまった。
 政治的には、国内・国外、世界の潮流に翻弄されたが、しかし、1945年から1955年までの10年間は、かりそめではあっても平和を希求した「まぼろし」が存在したと私は思う。SDGsを目標とするには、平和を希求することが最優先されなければならないだろう。

7: この道 北原白秋 1885年生~1942年没

北原白秋 1885年生~1942年没

この道

この道はいつかきた道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ

この道はいつかきた道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ

あの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子の枝も垂れてる

 SDGsを考えるとき、「いつまでも」Sustainable は「今から」持続可能という意味だけでなく、人類にとって、人間の歴史にとって失ってはならないものを「いつまでも」のはずだ。人類の、世界の願いと言ってもよい。お母さまと一緒に見た景色をいつまでも残したい、という意味だと思う。

8: 自然教室の始まり 1970年代初期

 1970年初期、「かぎっ子」という呼ばれ方が新聞記事になった。千里ニュータウンなど大都市郊外に規模の大きい団地が建設されていた。たとえば、その団地の5階に住んでいる子らが土に触れる機会が少ないまま育つことに、観念的だが私は危機をおぼえた。「かぎっ子」と言う呼ばれ方も気に入らなかった。軌を一にして、朝日新聞の声欄で、美方町(現、香美町)の田村利雄さんの〈声〉に出会った。田村さんに手紙を書き、神戸→八鹿→村岡→和田→(現地)と国鉄と全但バスを乗り継いで訪ねた。和田のバス停に着いたのは夜8時、街灯も乏しく、真っ暗だった。直通バスがなく、秘境への旅だった。「山田さんですか?」迎えに来てくださった人たちとは闇の中で出会った。
 こうして、その後《みかた自然教室》が始まった。《自然教室》は月例行事として神戸・阪神・姫路で展開されることになったが、この「自然教室」、全国で初めての実践だった。近畿日本鉄道が沿線サービスの行事で「自然教室」という言葉がつかわれていたので既存の事実はあったのだが、環境教育として子どもを対象したのは、私たちの実践が全国のさきがけだった。
 兵庫県自然教室というのがその実践団体の名称で、それは大阪、京都の仲間が同様の実践を行い、やがて東京の仲間も実践し、やがて全国に波及した。兵庫県自然教室は「ひょうご自然教室」と名を変更し、大阪は「大阪自然教室」として、いずれも今も存在し活動を続けている。
 公害闘争から環境教育へ、その始まりは1970年代初期より始められていた。そして、継承されている。SDGsの実践としては発祥でもある。当時、小学生だったS子さんは自然教室に出会い、今は、市会議員となり、環境を守る活動の先頭にたつ。大阪で活躍していた古沢広祐さんは大学教授を務め〈共存学〉を提唱し研究し、活躍を続けている。彼の近著は『みんな幸せってどんな世界』であり、SDGsを解説している。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」  この言葉は宮沢賢治の『農民芸術概論』の中の一文です。  この言葉で賢治が示したのは、誰かの不幸を前提とするような状態では「幸せな世界」とは言えないということです。自分一人だけが幸せな世界は成り立たない、みんなが幸せを共有する状態こそめざすべき道ではな...

9: 「子育て支援」が社会保障制度に組み込まれた。2015年

 社会保障に組み込まれたからといって、子育て支援の何かが激変するわけではない。その制度設計において消費税の増税とセットされていて、支援の実際が増税延期に伴って支援も先延ばしになった。無償化は、当初からの設計ではなく、国会議員選挙戦の最中、党首の思いつきと捉えられそうな空気感がそのきっかけとなった。
 医療・年金に加え、介護が社会福祉に加わったのは2000年だ。同じ2000年、地方分権も始まった。そういう意味で、2000年はSDGs事始の年でもある、といえる。その介護制度は、2000年のスタート時点で評判は極めて悪かった。今もその評判は必ずしも良いとは言えないが、しかし、介護制度を否定する人は少ないと思う。ということは、10年、20年後の子育て支援は様変わりする可能性もあると思う。
 幼稚園と保育の歴史は明治の初期まで遡ることができ、まったく別の経過を辿る。その詳細は別途で学んでいただきたい。就学前5歳の子どもは保護者(親)の事情でその”道”を分けられる。それから100年以上を経て、2015年、やっとこさ同じ道を歩もうとしている。これだけの歴史的背景があるだけに、社会制度としての子育て支援に当惑するのは当然だ。でも、ともかくスタートした。逆戻りしない限り、”正常化”された子どもの社会的環境に幸せがもたらせることを切実の願う。

連載:擬育(育てるは似せること)第1期
擬育(ぎいく):造語  働いているから保育園に預ける、3歳になったから幼稚園に行かせる、最近では、働いている・いないという親の事情にかかわらずに利用できる「認定こども園」があります。こうした場合を「保育」とし、家庭で親が育てる風景を「子育て」と、ここでは使い分けま...

 論点を変える。

 就職氷河期時代の世代について宝塚市はその嚆矢になった。私はこれをすぐさま歓迎した。なぜか。この世代の親たちは、扶養する子がいる場合、小学5年生以上、中核層は中高生だろう。どれだけ子育てに苦労しただろうかと思う。就職機会の喪失とした認識が一般的な中で、子育ての困難については触れられていない。

 バブル崩壊は、経済成長を伴わない、つまり、所得が伸びない暮らしを前提とする社会になったことを認識し、共存する社会(つまりSDGs)への試行を始めなければならないのに、貧困現象が先行してしまった。保育の無償化は、貧困層と富裕層とで子育てのあり方を分断することとなってしまった。

 戦後経済の終焉と転換が課題として示されている。今こそ、子育て環境において、「遊び」を評論するだけでなく、育ちつつある子どもの発達保障として、「遊び」の価値に気づき実践的に取り戻すことが極めて緊急性をもって、私たちおとなにつきつけられていると考える。子ども時代の遊び喪失が、様々に社会不安の根底にある。持続可能な開発目標を念頭に置くとき、最短で確実な解決と明るい未来は、子ども時代の遊び復権にあると主張したい。

“The Renaissance of Childhood” Project
 1970年代当初、"団地"住まいの家庭で育てられる子どもに"鍵っ子"というレッテルが張られた。当時、公害訴訟の判決が次々と下され、環境への関心が急速に高まり、破壊されてゆく自然を守ろうという運動が全国に起きた。すべておとな社会のことだ。好ましいことだが、その批判の渦の...

山田利行 2020.2.28記す
▶ひと&まち