五感と直観と霊性

五感のおぼえかた

 〈五感〉の5つを答えなさい。この問いには、簡単に答える方法がある。左右どちらでもよいから手を上にあげる。その手(指)を降ろして目をさわる。①視覚。すぐ下の鼻をさわる。②鼻=嗅覚(臭覚とも)。すぐ下の口をさわる(舌をさわるわけにいかないので)。③味覚。次にその手を耳にもっていきます。④聴覚。最後に、動かしていた手を開き、⑤触覚を、手で代表する。〈目→鼻→口→耳→手〉手の動作を伴わせば、記憶しておかなくても、この順序で五感を導き出せる。

五感って、大切なの?

 「はいっ! もっと五感を働かせて……」など叱咤激励につかったり、幼稚園(保育園)の概要紹介で「感性豊かな子ども、つまり五感」育成に特色ありとか、五感を磨く教育方針とか。そんなに五感って大切なのだろうか。五感が育っていないとか、五感が鈍いとか、そういうことってあるのだろうか。そして、五感の5つ以外に大切なことは、もうないのだろうか。

五感は生得的なのだ

 母の胎内から生まれ出て、母のおっぱいをさがすとき、あかちゃんは嗅覚でさがすという。胎内にいたときから母の声をあかちゃんは聞いていたという。生まれたばかりは視力が足りなくぼんやりだが、明るさはわかるという。ある大学病院の新生児室で、照明を夜間には暗くしたら授乳量が増えたという(参考:外部リンク)。新生児には原始反射が多く残っていることも確かめられている。
 あかちゃんは五感で生きている。母の胎内から生まれ出たそのときから五感は備わっている。成長過程で備わるのではない。

たとえば〈はだし保育〉

 あかちゃんの靴下は小さくてかわいい。しかし、靴下をはかせることで、足裏の感触は間接的になってしまう。あかちゃんには褐色脂肪細胞が備わっている。しかし、おとなになるにつれ少なくなるという。褐色脂肪細胞は体温調節にかかわっていて、乳幼児は寒さに強い。五感を大切にするという考え方からすれば、いつも靴下をはいたままというのはもったいない。〈はだし保育〉は理に適っている。

五感は”鍛える”のではなく、”守り・育てる”もの

 まず、生得的に備わっている五感を退化させないことが大切だ。退化させないことで、五感は育つ。〈はだし保育〉のように。
 レイチェル・カーソンは、〈「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない〉と言っている(『センス・オブ・ワンダー The Sense of Wonder』)。学校で知識を身につけるまでのあいだ、つまり、少なくとも乳幼児期は「感じる」体験が最も大切だと訴えかけてくれている。「感じる」が五感に通じるものとすれば、「感じる」機会を多くもつことを”鍛える”と言っても間違いではないだろうが、誰にも備わっている五感をもっともっと育てようと声かけされているのだ。

〈直観〉とは?

 辞書をひいてみよう。──推理によらず・直覚的(瞬間的)に物事の本質をとらえること。直接に知り、また、判断すること。──新明解国語辞典第三版
 ──一般に、判断・推理などの思惟作用を加えることなく、対象を直接に把握する作用。──広辞苑第三版
 ついでに〈第六感〉をひいてみよう。──〔五感の働き以外によるという意から〕直観的に何かを感じる心の働き。勘。──新明解国語辞典第三版
 ──五官のほかにあるとされる感覚で、鋭く物事の本質をつかむ心のはたらき。──広辞苑第三版
 ──五感以外にある感覚の意で、順序立った判断ではないが鋭く物事の本質を直観する働き。直観。勘。──新潮国語辞典
 これらのことから、直観=第六感、ということだろう。本質をとらえる方法として、五感とは”別に”〈直観〉というものがあるらしい。
 となれば、「五感がすべて」とはならない。

〈直観教授〉新明解百科語辞典1991年
──事物観察や体験を通して子供が得た印象を重んじる教授方法。コメニウスやペスタロッチにより提唱された。──というものも、ある。

心の拠り所

 そもそも〈感じる〉とは、どういうことだろう。〈感じる=感性〉だろうか。〈感じる≠感性〉だろうか。〈感じる〉は感情の表出だが、〈感性〉は表出ではなく〈感じる〉も含めてそれを支える基底的観念というものであろうか。
 〈感じる=心の拠り所〉は納得できる。〈感性≠心の拠り所〉だろう。俗な言い方になるが、心の奥底、深いところで〈感じる=心の拠り所〉は支えられている。つまり、〈感性〉によって〈感じる〉を取得でき〈心の拠り所〉となっている。言葉遊びに過ぎたところがあるかもしれない。
 さて、この流れで〈感性〉は何によって支えられているのだろう。ここまでの議論で、〈五感と直観〉だろう。
 ここまで記した上で、〈霊性〉を提案したい。五感や直観で説明できないものがあり、胸騒ぎとか、祈りとか、キリスト教では「神様に見守られて」のフレーズがあるように、あるいは、宗教を問わず、さらに無宗教と主張してやまない人も神や仏にすがるというか、日本人ならば手をあわせたことが誰しも経験的にあるだろう。それが〈霊性〉ではないか。〈感じる〉は〈霊性〉に通じる。信仰ある者は〈心の拠り所=霊性〉の等式が成り立つのかもしれない。心は〈霊性〉にも支配されている。

〈五感と直観と霊性〉は切り離せない

 生得的五感は独立しているのでなく、それらを鍛えることで直観を生じさせる。霊性で得られる心の安らかさは五感と直観を保障する──と考えられないだろうか。


  • 〈五感と直観と霊性〉は次のリンクでも論じています。
連載:擬育(育てるは似せること)第1期
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山田利行 2020.5.19記す
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