連載:擬育(育てるは似せること)第2期

擬育(ぎいく):造語

 この連載は今年2021年12月まで続けることとします。第1期は、そのとき・そのとき思うこと・思いついたことを記してきました。そのうち何を自分が書いているんだか、わからなくなってきた。連載39を一区切りとし第2期このページに移りました。第2期は”思いつき”ではなく、子どもの育ち・親の子育てにかかわることを”まとめる”ようなつもりで記していこうと思う。無理に続けようとは思わず、”まとめ”が終わったらそれを終わりとする。”まとめ”の期限が今年(2021年)の末ということです。

 このほど(今年1月)「いのちに出会う保育」を書き上げた。保育から離れて「擬育」を始めたのですが、目標としていた「私の保育」について一応の到達となった。すると対を為していた擬育について、これの”まとめ”をどうしようかと考える・考えられるようになりました。
 親(保護者)から見た子育てについて、どう考えたらよいのだろうか。メモしておこうと思う。

  • 我が子の可能性を限りなく求めて
  • 親の子育ては愛そのもので、しかし、求めている先は子の独立
    • 愛と独立
  • 擬育は擬態から連想したもので、〈生きてゆくことの強さ〉ということになるか
  • 独創的な子育てを追求しながらも、子育てとは似せることなりと、これも真理だろう

2021.1.13

目次

40: 子どもの可能性(将来の)を改めて考える

 「子どもの可能性」については、今まで何度も機会あるたびに書いてきている。そもそも「可能性」というが、何を対象にそれを論じるのか。対象が様々だから、場面が色々だから、「機会あるたび」で書くことになるのだろう。
 点Aと点Bを最短距離で線をひいたとき、線分ABという。AまたはBが起点で、AまたはBが終点となる。数学が苦手な方、ごめんなさい。AまたはBを起点とし、終点がないAまたはBを通過する直線を描けば、それは半直線となる。起点も終点もなく、AとBのそれぞれを通過する直線を描けば、その両端は〈無限〉となる。子どもの可能性はこの〈無限〉に等しい。
 では、無限の可能性を実現するにはどうしたらよいだろうか(←この問いかけは論理矛盾だが……) 擬育の連載3回目に記したこと。《両手に、砂を盛る》の実践だろう。これは今更言われてもと思うし、空想にすぎない。精一杯砂を盛り、盛った手を動かさない。動かすと砂がこぼれるから。この地に生まれて、そのときに与えられた天分を伸ばすだけで、よい。

 こんな空想がなんの役に立つのだろう。
 伸び伸びと遊ばせたい。納得ゆくまで、得心ゆくまで遊ばせたい。学校で学ぶ〈学習〉が大切であることを私は否定しない。学習に〈基礎〉という言葉をつかうならば、基礎になる学習は〈遊び〉だろう。だから、〈遊び〉と比較したようなものの言い方で学習とか勉強は空疎になると考える。〈無限〉を保障するのは〈遊び〉と私は思いたい。

2020.8.1

41: 行動半径と世界観

 下のリンクに移動しました。

子どもの、行動半径と世界観
 「行動半径」という話をしよう。もとは軍事用語で軍艦や軍用機が燃料補給しないで往復できる距離の片道のこと。これが社会生活に転用され、知的空間または地理的範囲(距離)につかわれる。これを、子どもに援用しよう。 かつて、子どもの行動半径は500mあったという。それがやがて100mに...

2021.1.8

42: 関心があるから「こわい」

 幼児は言葉でも態度でもストレートに表現する。わかりやすい。だが、表現している言葉をその表現どおりに受け取ってよいかは微妙だ。
 2歳児の「こわい」はそのひとつだろう。「こわい」と言いながら、こわい対象を見つめている。それは、関心があるからだ。関心があるからこそ「こわい」。
 おとなだったら目をそらす、または目を覆う。5歳児はどうか。視線を向けるだけでなく、対象に距離を近づけることさえある。
 こわい対象は、おとなは受けいれがたいが、子どもは必ずしも避けているのではなく、受けいれる方法が見つからないため「こわい」と表現しているのかもしれない。だから、「こわい」は、関心があるよと言っているサインともいえる。

 保育士養成校で学生に「こわい」を強いてはいけないと話している。「こわい」を発するとき、子どもの体は硬くなる。受けいれられないのだ。説得するのもダメ。次の機会まで待てばよい。無理強いすると関心を失い遠ざけることになる。
 こわい対象を3つの例で具体的に考えてみよう。
 絵本に登場する《鬼》は、ユーモラスだったり、親しみすら湧くことがある。昔話に出てくる鬼は迫ってくるときがある。ハラハラドキドキこわいときも、やっつけられる鬼をかわいそうと思わせることもある。絵本に収まらず、節分のときは着ぐるみをまとった鬼が登場し、子どもを泣かせる。あとでどれほどなだめようと、鬼に対する恐怖は子どもの心を傷つける。
 アマガエルだったらさほどでもないけれど、手のひらほどある大きな《カエル》は「こわい」。少し触れて、ピョーンと跳ぶと、びっくり「こわい」。でも、仲良しの友達がつかんだ。すると「わたし(ぼく)もつかめるかもしれない」と思うこともあるだろう。
 危ないよと言われながら、子どもは端を歩く。階段は地面からだんだん高くなる。少しでも高いところから《飛び降りよう》とする。明らかに「こわい」を楽しんでいる。自分を試し、挑戦している。

2020.9.4

43: 人は変態する

 昆虫は、卵から幼虫、成虫となる。幼虫は脱皮を繰り返して大きくなり、成虫となる。これを変態という。
 新生児、あかちゃんのときを第1齢とする。1歳3か月頃、たとえば、保育園へお迎えに行ったとき、ママを目にするとまっすぐに向かってきて途中に積木や本があっても踏みつけてきたのにこれを避けて迂回するようになる。おうちでも散らかっているものを踏みつけず避けようとする。これは向かおうとする目標を1つだけでなく、身近なことにも関心が向き複数が視野に入るようになった。つまり、「考える」(にんげん)になった。これが1歳3か月頃でここからが第2齢。

動物から”にんげん”になった瞬間〈とき〉を発見
三本ストロー法  1歳になった1月生まれの孫と公園に行った。シロツメクサが咲いていてその白い花を孫に差し出すと手を伸ばして、取った。続けてもう1本摘み、手渡すと、これも取った。3つめを渡そうとすると、すでに掴んでいたシロツメクサを片方に寄せ、そちらは2本を掴んでい...

 第2齢では、目前のことに関心は向くが、許容量があきらかに不足している。第2齢の後半はいわゆる「いやいや期」に相当する。1歳3か月から2歳半乃至3歳誕生日頃までが第2齢に相当する。
 第3齢は2歳半乃至3歳から小学2年生(8歳満了時)まで。「幼児」と言い換えられる時期だ。5歳の誕生日を迎えるとグンと成長を見せる。でも、それはある時期、短い幅で「なんだか最近成長したなあ」と思わせるということで、”脱皮”したというほどでもない。
 第4齢は、小学3年生(9歳)から4年生(10歳)に相当する。すっかり大きくなった幼虫だが、蛹(さなぎ)になる子もいるかもしれない。蛹であっても蛹でなくても、体(こころ)の羽化準備が進む。第4齢を終齢ともいう。
 いよいよ、羽化。おとなへの変身だ。小学5年生からは「おとな」だ。
 仮想現実(バーチャル・リアリティ)として子どもの発達を提案してみた。

 昆虫の場合または多くの動物、おとなになるということは、繁殖が目的となる。繁殖を終えると死を迎えることになる。江戸時代初期の平均寿命は30歳程度であったろうとされている。子どもを平均5人産み、夫婦のどちらかが死亡するまでの結婚継続期間が江戸時代は約35年あったらしい。「おとな」の意味が、すっかり変わったということだろう。

日本の人口推移を、歴史として読み解く。
『人口から読む日本の歴史』読書ノート 鬼頭宏/著 2000年 講談社学術文庫鬼頭宏:1947年生まれ。専攻は日本経済史、歴史人口学『人口から読む日本の歴史』執筆者(同)『日本二千年の人口史』(1983年)を底本  〈少子化〉が社会問題の最中、そして私が課題と...

2020.9.15

44: 目的と目標

 〈目的と目標〉どう違うのだろうか? 辞書をひいても今一つわからないし、適当につかっている事例が多く、参考にならない。けれども、以下、私なりに区別してみよう。
 〈目的〉と〈目標〉は、同じではない。大学に進学したら、では何を学ぼうか。前者が目的で、目的が定まれば目標をもつようになる。目標は、ときに応じてしばしば変わるが、目的は目標ほどには変わらない。
 5歳児に野外活動で、○○に行くよと目的地を告げれば、だったらカエルやバッタをつかまえようと目標ができる。幼児は、自ら〈目的〉を決められないが、目的が告げられたら〈目標〉はスイッチを押したように点灯する。4,5歳ともなれば、バッタをつかまえたいから「どこかへ行こう!」と誘ってくることもしばしばある。目標を達成するには、目的が必要ということを学ぶ緒についているからだ。

 修学旅行を例にして具体的に考えよう。《6年生になったら修学旅行に行ける》これは、学校が設定したものではあるけれど、5年生にもなると、これを自己の《目的》に据えるようになる。目的に対して自己を律するようになる。自律しようとする心がさまざまな〈目標〉になる。ところが、コロナ禍を理由に、修学旅行が中止されると子どもは〈目的〉を失うことになる。目的が失われると、目標も同時に消え去る。ここで言えることは、学校行事は、学校だけに執行権があるのではないというだ。自律する心を失ったり、迷いを生じさせることが、子どもの成長に重大な障壁となるだろうことは容易に推測できる。
 では、コロナ禍で入学式の時期を失った子どもはどうか。1年生になろうとする6歳頃は、目的と目標を分けて意識できない。保育園や幼稚園を卒園したら小学校に行くという目的はおとなが設定したものだ。その目的を信頼して子どもは「1年生になったら……」と希望(目標)を抱く。その入学式が執り行われることなく学校が始まった。自律する心が芽ばえている5,6年生と異なるが、1年生の場合、バッタをつかまえたかったが、その目的地に行けなかった、ということになる。1年生の、夢・希望・目標を大切に育てることが、5,6年生の自律する心に結びつく。

 およそ2歳半までは目的も目標も存在しない。あかちゃんが、手を差し出しているママをめざして這い這いして進む姿は〈目標〉とは違うのだろう。2歳半を過ぎる頃から、子どもの要求が示される。すべり台に登りたい、ブランコに乗りたいなどと要求する。公園に行くという〈目的〉が習慣化されるからだ。やがて、ブランコに乗るために公園へ行こうと誘うようになる。5歳児にもなれば目標を達成するには目的が必要とわかるようになる。小学3,4年生頃は、〈目的〉が〈目標〉より優先されるようになり、5年生になると〈目的〉が〈目標〉より明確に優先となる。〈おとな〉になる──ということでもある。

2020.10.1

45: 動的平衡と渚と紙飛行機

 ヒトはプラモデル(人体模型)ではない。プラモデルは精巧であってもパーツでできている。これを否定することは簡単だ。ところが、パーツが足りないと不安になる。足りない部分は何かで補えるかもしれない。そういう不安を抱えている人は意外といる。
 コラーゲンと聞かされると効くような気がする。
──コラーゲンは、細胞と細胞の間隙を満たすクッションの役割を果たす重要なタンパク質である。肌の張りはコラーゲンが支えているといってもよい。ならば、コラーゲンを食べ物として外部からたくさん摂取すれば、衰えがちな肌の張りを取り戻すことができるだろうか。答えは端的に否である。──福岡伸一『動的平衡』(p76)
 福岡のこの書は、「生命(いのち)とは何か」を問うている。生命は時間の関数で、時間と共存している、という。
──全身の細胞が一つの例外もなく、動的な平衡状態にあり、日々、壊され、更新されている。皮膚が内側に折りたたまれた消化管や内臓の細胞も、絶え間なく壊されては作り出されている。細胞の分裂が起こらないとされる心臓や脳でさえ、個々の細胞の中身はどんどん壊され、新しい分子に置き換えられている。一見、永続的に見える骨や歯も、その内部では常に新陳代謝が進行し、壊されながら作り替えられているのである。──(p247)
 昨日の「私」は今日の「私」ではない。だったら、なぜ「記憶」が存在するのか。私という肉体はなぜ存在するのか。こういう物言いを難しいと思う人は、パーツを組み立てるプラモデルと人の違いを理解できないでいる。

 生命活動は留まることを知らず、休みなく動いている。寝ている間も働いている。あかちゃんがそうだし、幼児もそうだ。おとなしいか、ちょこまか動きまわっているという比較ではない。おとなも、死ぬまでそうなのだ。パーツを組み立てて完成(静止像)をめざすのでなく、動的な平衡状態が「生きている」ということなのだ。
 波が打ち寄せる渚。地球が回り続けている間、渚は絶えることはない。潮の満ち干は渚をダイナミックさせることになり、古代より生命を育んできた。渚を心地よいと思うとき、じつは動的平衡を受けいれているのではないだろうか。

 難しい表現で恐縮だが、以下、引用する。
──可変的でサスティナブルを特徴とする生命というイステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。──福岡伸一『動的平衡』(p232)
 子どもの可能性は、障碍の有無を超えて「無限」と示唆している。

 動的平衡を根拠とすると、生命は時間の関数で表される。

生命=f(x) x=時間

 x=0 のとき、死を意味する。xが0になるということは、体内の循環が止まる。生きているということは、x>0 で、代謝はかたときも休むことなく行われている。代謝を高めることが生命「活動」を支えることになる。
 紙飛行機を飛ばそう。なるべく遠くへ飛ばそうと思えば、自然落下を想定して角度を上に向けて飛ばす。空気をたくさん受けられるよう機体を工夫すれば、下向けに飛ばしても機首が上昇する。エイッと飛ばせば、機体の様子も、受ける空気もさまざまに変化する。動的平衡の効果で飛び続ける。
 子どもをとりまく環境は、さまざまに変化する。意図して見えることもあれば、気づかない・見えない環境のほうがより多く子どもをとりまいている。
 時間xはゼロになることはない。

子どもの成長=f(時間x)+変異

「変異」を加えてみた。変異を「子どもの主体性」と置き換えてよい。《生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。》と上述したようにパーツの選択ではなく「効果」の中身を考えたい。

2020.10.15

46: まわりみちで子どもの心が育つ

 〈ある本〉(=その本を思い出せないのだが……)を読んでいて、〈感情は7歳までにそろう〉の表記(という記憶)があった。相手(他者)の気持ちが理解できるようになるには、7歳を待つ必要がある、という意味だ。これが重要と気づいて〈ある本〉を思い出せず残念に思っていたところ、福岡伸一の『動的平衡』を読んで《心の理論》とわかった! 以来、《心の理論》を集中して学習している。必ずしも易しくないけれど、辛抱辛抱。

 すると、《「心」とは何か?》を避けることができない。「心」らしいものに芽ばえるのは1歳3か月ごろと、乳幼児の観察と体験から確信するものがある。発達心理学者のピアジェは長女ジャクリーヌが「寝たふり」をしたときが生後15か月と記している(a)。幼児の「ごっこ遊び」は、18か月に始まりその後に著しく発達するとある(b)。(a/b)ともJ・W・アスティントン『子供はどのように心を発見するか』新曜社 1995年。
 この本から引用すると(p128)──ある片方の物語では、女の子が母親にパンをもらって、それを外へ持って出て、パンくずを地面にまいた。そこへ鳥がやって来て、それを突っついて食べた。もう片方の物語では、もう一人の女の子が母親にパンをもらって、それを外へ持って出て食べると、パンくずが後ろの地面に散らばり、そこへ鳥がやって来て、それを突っついて食べた。そこで子供たちに、「どちらの女の子が鳥にパンくずを食べさせるつもりだった?」と尋ねた。すると三歳児は、正しく区別できなかった。ところが五歳児は、行為者の〈目標と結果〉が一致するかどうかを知らされなくても、意図的な行為と意図的でない行為を区別できた。なぜ五歳児が成功して、三歳児はできないのだろうか?──

 目標と結果が一致し始める年齢は《心の理論》を学ぶと4歳らしい。そこで、ピンとひらめいた。地点Aから地点Bに向かうときその距離50メートル(A→B)に満たない。林の中だ。AからBに向かって左に池Pがある。A→池P→Bの場合、池の端を少し歩いてBに出る。先日、4歳児の野外活動で、子どもたちに「探検しよう!」と声かけし、池Pに立ち寄るグループと、立ち寄らないグループに分かれ、お互いに体験の順番を入れ換え、結果としては、どちらも経験する、という試みをした。〈目標と結果〉が一致するという体験だ。子どもの様子は、おとなから見て”楽しんでいるふう”だが、《心の理論》に基づけば、4歳児にとっては意味ある体験なのだと気づくことになる。

2020.11.1

47: 臨床保育(子育て)学の提案

 臨床とはその場に臨むこと。《心の理論》のクライアントつまり対象者の核は0歳から7歳だ。この年齢幅で接する(臨床の場にいる)おとなは、保育園・幼稚園などの先生、小学校低学年を担任している先生たちだ。「心とは何か」という極めて重要な課題について、先生たち専門家は、学生時代に学んだかもしれないけれど、実践(臨床)で応用できる人はどれほどいるだろうか。
 《心の理論》に限らず専門分野の本を読むたび、現場でこうした学術成果がどれだけ活かされるのか、しばしば疑問に思う。臨床(現場)に則した保育(子育て)の方法を支える学問の立て方が必要と思う。臨床に則していないから、小児科医・看護師・助産師・保健師・保育士・幼稚園教諭・小学校教員らが情報を共有するしくみがない。さらには、精神科医・臨床心理士・建築士・(ほかにもっとあるだろう)らとも繋がらない。人類史・世界史・文化史に照らしても未曾有なコロナ禍の状況にあって、子育ての学術的基盤をつくることが、期待される「新しい生活基準」になるように思えてならない。
 臨床保育(子育て)学を建設できるのは、大学ではなく臨床現場であって、それを大学等の研究者が着目することだと私は思う。臨床保育(子育て)学の体系で「保育研修計画学」が位置づけられると嬉しい。
 発達や個人の能力には、当然ながら個人差がある。その個人差は、7歳を過ぎてからのほうがより大きくあり、乳幼児期の個人差は7歳以降と比べて小さいとみている。乳児期は、さらに小さいとみている。発達にかかわる臨床(現場)では、その専門的な知識が極めて有効ということになる。そして、おそらく「遊び」の必要を再発見するだろう。

 医療現場はそれぞれの専門に従い分業になっている。医師・看護師・リハビリを担当する資格を有した専門職・薬剤師ほか事務系を含めて様々なスタッフで支えられている。
 小学校はどうか。ほぼすべての教科を教える担任(先生)は一人で複数担任は例外だ。音楽など専科の先生。保健室を担当する養護教諭。障碍児を受け持つ先生。図書室の先生(司書教諭)は有効に機能していないようだ。複数校を担当する臨床心理士。専任の事務担当はいるだろうが、学年主任は担任と掛け持ちで、先生は事務が多いと問題になっている。
 さて、保育園・幼稚園・認定こども園ではどうだろうか。保育園で複数担任は珍しくないが、幼稚園は担任一人で担当し子どもの数も多い。看護師は一部で配属されているが、専門分野に特化した保育士の養成や配属は緒に就いたところだ。

2020.11.15

48: 他者の発見、他者との出会い

 「間主観性」という言葉がわかりにくくて、しかし、大変気になったままだ。本を読んで理解するというより、自分の言葉で語れるようになりたいと思っている。
 新生児期の4週が明けても、赤ちゃんはまだまだ赤子の名がふさわしい。母に抱かれ、乳を与えられ、みるみると可愛さを見せてくれる。お腹にいたときから母の声を聴いていたという。赤ちゃんは「わたし」ではなく、赤ちゃんと母とがあわさって、赤ちゃんにとって「わたし」なのだ。「わたしたち」と複数にしてもよいが「わたし」個人なのだ。これが間主観性。
 パパがこわごわ抱っこしてくれる。赤ちゃんとパパとがあわさって、赤ちゃんにとって「わたし」なのだ。これも間主観性。

 間主観性は哲学用語らしい。誰かが日本語として「間主観性」を当てた。日本語としてはもっと相応しいものがないのだろうか? 共同主体性、前自我、苦し紛れに考えてみたけれど、むずかしい。

 間主観性を通して、やがて自我(アイデンティティー)に目覚める。「やがて」はいつだろうか? 鏡に映っている”自分”を自分とわかるのは「生後2年めの終わり」という記述をみつけた。「生後1年近く」では、「ことごとく失敗」して、鏡の”自分”に気づかない。
 どうやら3歳の誕生日を迎える頃には、自我が生じているようだ。「自我の目覚め」は、「友達ができた」ことと同じ意味をもつ。哲学的には、他者の存在が明らかになったという意味になる。他者を意識することで、自我との確執が始まる。社会の一員になったということで「けんか」や「物のとりあい」が始まる。

 この他者と自我(=自己)とのかかわりは、おとなになって、死ぬまで続く。他者がいなければ自分の死もない。死が気になるということは、他者抜きに生きられないということだ。野外活動で3歳児のとき「他者の発見」というステージになると説明している。しかし「自己の発見」というステージはない。5歳児で「自己は他者の存在で規定される」というステージになる。

 間主観性は3歳未満までにつかえる言葉だろう。「自我の目覚め」を通過することで「自己」が表れるというのは”錯覚”で、他者の存在によって現れる自己を意識しているにすぎない。だから、様々な人との出会いで私たちは揺れる、歓ぶ、悩む。──ことに、私は今さらに気づかされた。

 「おもいやる」「ゆずる」は他者を思ってのことだ。──と、気づいた。「きたえる」は自分のためでなくどうやら他者のため、らしい。

2020.12.1

49: 鏡のなかのチンパンジー

 チンパンジーの遊んでいる部屋に鏡をおいた。10日間、鏡の前で遊んだり食べたり、なんでも自由にさせた。そして、ごめんね、麻酔で眠らせて眉の上、額にマークをつけた。マークは匂いのしない染料で。さて、眠りから醒めてしばらくの間、鏡を取り外しておいた。チンパンジーはマークに気づくことなく、だから額のマークをさわりにいくことも、もちろん触って匂いを嗅ぐという動作もしなかった。つまり何も気づかなかったということだ。そして、ふたたび鏡をおいた。
 すると鏡に映った自分を見たチンパンジーはマークに興味をもち、さわったり、さわった手を見たり、手の匂いをかいだり、手を念入りに調べた。
 じつは、チンパンジーは1ぴきでなく、複数いた。その複数みんなが同じことをした。この実験をしたアメリカ人・ギャラップは大発見だと思い驚き興奮した。──鏡のなかに見えているのが自分の顔だと、チンパンジーが理解している、とわかったからだ。1970年頃の話。
 人間の子どものように育てられた「チャンテック」と名づけられたオランウータンは、鏡をつかって身づくろいをしたり、6歳のときはサングラスをかけて鏡にむかったという。(出典:『うぬぼれる脳』NHKブックス 2006年)

 チンパンジーは およそ500万年前に、オランウータンは1300万年から1400万年前に ヒトの系統と分岐したと算定されている。未来500万年後チンパンジーは、未来1300万年後オランウータンは、私たちのような人間になって二足歩行をしているのだろうか。作物を作ったり、化粧をしたり、娯楽を楽しんでいるのだろうか。そのとき、人間はどうなっているのだろう?
 人間の場合、”鏡の自分”に気づくのは、いつ? 前回の「他者の発見、他者との出会い」では「生後2年め終わり」(36か月未満)と記した。「18か月」という別な記録もありこれは1年半だから、けっこうな幅がある。”鏡の自分”に気づくということが、ただちに「自己の発見」ではないと諒解しておいたほうがよいだろう。

2020.12.15

50: 自閉症スペクトラム障碍の子ども

 ウタ・フリス(2003年)『新版 自閉症の謎を解き明かす』を読んだ。自閉症に関心があって読んだわけでなく〈心とは何か〉を考えているうちにこの本に辿りついた。自閉症の症状は様々なタイプがあって、知的な遅れが著しい重度から映画「レインマン」で主演ダスティン・ホフマンが演じた高機能障碍に至るまでその幅は広く、同じ障碍とは思えない。しかし、共通するのはコミュニケーションの障碍。〈心の共感〉が成立しない。自閉症は今日では「自閉症スペクトラム」と名称が変更されている。
 「生まれたときは普通だったのに……」と証言する親は多いらしい。1歳前後になって少しおかしいかなと思っても個性と思い、2~3歳になって定型発達する子どもらとの違いを強く意識するようになるという。
 自閉症の原因はいまだにわかっていない。しかし、研究者のほとんどはなんらかの脳機能障碍をもって生まれたとしている。うぶごえをあげて生まれ、母を認め、周囲に関心があるかのようなまなざしを向ける。定型発達児は生後2、3年の間に言葉を飛躍的に覚え、行動範囲を広げてゆく。自閉症スペクトラムの子どもは、必要最小限の言葉に留まり、日常の変化についてゆけず、関心を示す態度は「こだわり」に見えてくる。
 自閉症スペクトラム障碍の子どもは、ほんとうに〈コミュニケーション〉がむずかしいのだろうか。〈心とは何か〉〈コミュニケーション〉とは何かに舞い戻る。
 自閉症とされる東田直樹さんを宝塚市ホールの舞台で拝見したことがある。司会者と東田さんはコントのようなコミュニケーションを交わし、場内を沸かせた。笑い、驚き、感心・関心がうずまいた。場内からの質問を受けた。そのひとつ。「一番落ち着くところはどこですか?」「(自分の)部屋」。これは立派なコミュニケーションだ。
 2~3歳の判定を待たず、あるいは、そのような判定があったとしても、乳幼児期の発達に必要なことは、障碍があってもなくても、定型発達児と同じではないかと思う。そう思いたい自分がいるだけかもしれないが、野外活動の実践をともに体験して、それなりの発達が感じられるようになった子どもと出会ってきたことだけは確かだ。

2021.1.1

51:〈ふるさと〉と、こころ

 小学生のとき音楽の時間で「故郷(ふるさと)」を歌った。今も歌われているのだろうか。「うさぎ追いし……」とくちずさみながら、自分には〈ふるさと〉がないなあ~と思っていた。〈ふるさと〉とは何だろう?
 歌詞にあるように、うさぎに出会うことは都会に住む子どもはまず経験しない。ふな(魚)をとる経験も限られる。メロディーを奏でる音風景にふるさと感があるかもしれないけれど、リアル(現実)でなくバーチャル(非現実)でしかない。

 私は姫路で生まれた。雑居部屋の一隅にいて、サーカス団の役者らと一緒だったという。1950年のことだ。母が健在のうちに確かめると、祖母宅に3歳の頃から、しばしば預けていたと渋々語った。記憶で呼び出せるのは、なぜか田舎の景色と小川だったから、その謎解きをしておきたかった。播州平野に流れる林田川を西端としJR網干駅との間が私のふるさとだ。今は電車基地がある西端あたりだ。
 近郊でも旅行先でも、水草がゆれる澄んだ小川の流れに出会うと胸が痛む。3歳の記憶はないが、小学1、2年生の頃は、夏休み40日間ずっと田舎にいた。お盆で両親が田舎に来ても、私を残して帰って行った。柱の陰で泣いたことを覚えている。(帰りたい)と言えなかったからだ。言ったとしても連れて帰ってくれないからだ。祖母は(家のない子)と言い、それをかわいそうと言っていたと、母が漏らした。祖母におんぶをねだり、歩いている途中でつまずき、背負ったまま顔面を強打した。血だらけになり鼻の下が大きく裂け一生の傷になった。それを見るたびに〈ふるさと〉を想い出した。
 4歳までは確かに家がなかった。5歳から23歳まで、男3人きょうだいの5人家族は4畳半と2畳の二間で18年間過ごした。長男だった私は、弟が幼少で預けられたということらしい。そうした田舎体験が今の自然志向につながったのだろうと、これは確かに思う。私事が長くなってしまった。

 〈ふるさと〉を唄う歌は多くある。例をあげるまでもないだろう。飛行機で世界中どこにでも短時間で移動できるし、インターネットの時代でもある。通信も物流もその必要が生じれば地球規模で移動できる。コロナもそうしてやってきた。〈ふるさと〉の定義は変更しなければならないのかもしれない、少なくとも都会に住んでいる人たちには。
 ──そして、〈ふるさと〉に、どんな意味があるのだろうと考えてしまう。

(つづく)
山田利行 2021.1.11 連載中
▶子育ての確からしさを考える
▶“The Renaissance of Childhood” Project 子ども期の、再生(ルネサンス)

帆塾(はん塾):フィールド型寺子屋
 "寺子屋"は時代錯誤だろうか。武士が闊歩? した時代をイメージするのではなく、子どもがどう育ち、育てられたのだろうか。そのことを第一に考えたい。寺子屋の時代と比較するならば、武士階級だけでなく、農民の暮らしがどうだったのか、そこをしっかり知りたい。 山田利行 2...