連載:擬育(育てるは似せること)第2期

擬育(ぎいく):造語

 この連載は2021年12月まで続けることとします。第1期は、そのとき・そのとき思うこと・思いついたことを記してきました。そのうち何を自分が書いているんだか、わからなくなってきた。連載39を一区切りとし第2期このページに移りました。第2期は”思いつき”ではなく、子どもの育ち・親の子育てにかかわることを”まとめる”ようなつもりで記していこうと思う。無理に続けようとは思わず、”まとめ”が終わったらそれを終わりとする。”まとめ”の期限が来年(2021年)の末ということです。

2020.8.8

目次

40: 子どもの可能性(将来の)を改めて考える

 「子どもの可能性」については、今まで何度も機会あるたびに書いてきている。そもそも「可能性」というが、何を対象にそれを論じるのか。対象が様々だから、場面が色々だから、「機会あるたび」で書くことになるのだろう。
 点Aと点Bを最短距離で線をひいたとき、線分ABという。AまたはBが起点で、AまたはBが終点となる。数学が苦手な方、ごめんなさい。AまたはBを起点とし、終点がないAまたはBを通過する直線を描けば、それは半直線となる。起点も終点もなく、AとBのそれぞれを通過する直線を描けば、その両端は〈無限〉となる。子どもの可能性はこの〈無限〉に等しい。
 では、無限の可能性を実現するにはどうしたらよいだろうか(←この問いかけは論理矛盾だが……) 擬育の連載3回目に記したこと。《両手に、砂を盛る》の実践だろう。これは今更言われてもと思うし、空想にすぎない。精一杯砂を盛り、盛った手を動かさない。動かすと砂がこぼれるから。この地に生まれて、そのときに与えられた天分を伸ばすだけで、よい。

 こんな空想がなんの役に立つのだろう。
 伸び伸びと遊ばせたい。納得ゆくまで、得心ゆくまで遊ばせたい。学校で学ぶ〈学習〉が大切であることを私は否定しない。学習に〈基礎〉という言葉をつかうならば、基礎になる学習は〈遊び〉だろう。だから、〈遊び〉と比較したようなものの言い方で学習とか勉強は空疎になると考える。〈無限〉を保障するのは〈遊び〉と私は思いたい。

2020.8.1

41: 行動半径と世界観

 「行動半径」という話をしよう。もとは軍事用語で軍艦や軍用機が燃料補給しないで往復できる距離の片道のこと。これが社会生活に転用され、知的空間または地理的範囲(距離)につかわれる。これを、子どもに援用しよう。
 かつて、子どもの行動半径は500mあったという。それがやがて100mになった。「かつて」に根拠が得られず、1955年頃から10年間と私は推測している。これを基に児童公園(現在では街区公園の呼称)が計画配置された。法律で定められ全国に児童公園が整備されたが、子どもの遊び場に供する目的だったが、さて出来上がると子どもの姿が少なかった。それで調査したところ(誰が調べたのかわからないまま)子どもの行動半径が100mになっていると私は知った(これもどこでまたは何で知ったのか思い出せない) 子どものとき「遠いところ」と思っていたのに、おとなになってみると「近い」と気づいた経験は誰にもあるだろう。

 ところで、今子育て中の親たちは1980~1990年とその前後に生まれた人たちだろう。すでに行動半径が縮まってしまった世代だ。だから、以下説明に迷う。実感が伴うだろうか、と──。
 500から100は5分の1だが、半径が示す面積では25分の1となる。子どもは500mまたは100mを遠いと思う。それがおとなになると近いと感じるようになる。空間認識=世界観がおとなになることで拡がるということだろう。さまざまな(楽しい・怖い・おもしろい)体験を積みながら世界観が拡がる。子どもからおとなになる過程ではなく、その出発となる〈子ども〉は時の流れとともに同じ〈子ども〉でない。かつての子どもの世界観は、その後に25分の1になった。
 不登校・いじめなど、子どもをとりまく環境の要因は、行動半径の変化も影響しているのではないか、と思う。

 では、どうしたらよいのか。日本の住宅事情やその配置、生活や消費(清潔志向・商品物流を含め)は均質化され、世界観を醸造するには負の効果でしかない。子どもの発達を促す環境は貧しくなり、子どもの自力では無理だ。親の休暇でもって、環境の違うどこかへ連れ出すしかない。均質なテーマパークを控えめにして、たとえば閑静な田園で五感をフルに生かせるときをすごすことが求められると思う。

2020.8.15

42: 関心があるから「こわい」

 幼児は言葉でも態度でもストレートに表現する。わかりやすい。だが、表現している言葉をその表現どおりに受け取ってよいかは微妙だ。
 2歳児の「こわい」はそのひとつだろう。「こわい」と言いながら、こわい対象を見つめている。それは、関心があるからだ。関心があるからこそ「こわい」。
 おとなだったら目をそらす、または目を覆う。5歳児はどうか。視線を向けるだけでなく、対象に距離を近づけることさえある。
 こわい対象は、おとなは受けいれがたいが、子どもは必ずしも避けているのではなく、受けいれる方法が見つからないため「こわい」と表現しているのかもしれない。だから、「こわい」は、関心があるよと言っているサインともいえる。

 保育士養成校で学生に「こわい」を強いてはいけないと話している。「こわい」を発するとき、子どもの体は硬くなる。受けいれられないのだ。説得するのもダメ。次の機会まで待てばよい。無理強いすると関心を失い遠ざけることになる。
 こわい対象を3つの例で具体的に考えてみよう。
 絵本に登場する《鬼》は、ユーモラスだったり、親しみすら湧くことがある。昔話に出てくる鬼は迫ってくるときがある。ハラハラドキドキこわいときも、やっつけられる鬼をかわいそうと思わせることもある。絵本に収まらず、節分のときは着ぐるみをまとった鬼が登場し、子どもを泣かせる。あとでどれほどなだめようと、鬼に対する恐怖は子どもの心を傷つける。
 アマガエルだったらさほどでもないけれど、手のひらほどある大きな《カエル》は「こわい」。少し触れて、ピョーンと跳ぶと、びっくり「こわい」。でも、仲良しの友達がつかんだ。すると「わたし(ぼく)もつかめるかもしれない」と思うこともあるだろう。
 危ないよと言われながら、子どもは端を歩く。階段は地面からだんだん高くなる。少しでも高いところから《飛び降りよう》とする。明らかに「こわい」を楽しんでいる。自分を試し、挑戦している。

2020.9.4

43: 人は変態する

 昆虫は、卵から幼虫、成虫となる。幼虫は脱皮を繰り返して大きくなり、成虫となる。これを変態という。
 新生児、あかちゃんのときを第1齢とする。1歳3か月頃、たとえば、保育園へお迎えに行ったとき、ママを目にするとまっすぐに向かってきて途中に積木や本があっても踏みつけてきたのにこれを避けて迂回するようになる。おうちでも散らかっているものを踏みつけず避けようとする。これは向かおうとする目標を1つだけでなく、身近なことにも関心が向き複数が視野に入るようになった。つまり、「考える」(にんげん)になった。これが1歳3か月頃でここからが第2齢。

動物から”にんげん”になった瞬間〈とき〉を発見
三本ストロー法  1歳になった1月生まれの孫と公園に行った。シロツメクサが咲いていてその白い花を孫に差し出すと手を伸ばして、取った。続けてもう1本摘み、手渡すと、これも取った。3つめを渡そうとすると、すでに掴んでいたシロツメクサを片方に寄せ、そちらは2本を掴んでい...

 第2齢では、目前のことに関心は向くが、許容量があきらかに不足している。第2齢の後半はいわゆる「いやいや期」に相当する。1歳3か月から2歳半乃至3歳誕生日頃までが第2齢に相当する。
 第3齢は2歳半乃至3歳から小学2年生(8歳満了時)まで。「幼児」と言い換えられる時期だ。5歳の誕生日を迎えるとグンと成長を見せる。でも、それはある時期、短い幅で「なんだか最近成長したなあ」と思わせるということで、”脱皮”したというほどでもない。
 第4齢は、小学3年生(9歳)から4年生(10歳)に相当する。すっかり大きくなった幼虫だが、蛹(さなぎ)になる子もいるかもしれない。蛹であっても蛹でなくても、体(こころ)の羽化準備が進む。第4齢を終齢ともいう。
 いよいよ、羽化。おとなへの変身だ。小学5年生からは「おとな」だ。
 仮想現実(バーチャル・リアリティ)として子どもの発達を提案してみた。

 昆虫の場合または多くの動物、おとなになるということは、繁殖が目的となる。繁殖を終えると死を迎えることになる。江戸時代初期の平均寿命は30歳程度であったろうとされている。子どもを平均5人産み、夫婦のどちらかが死亡するまでの結婚継続期間が江戸時代は約35年あったらしい。「おとな」の意味が、すっかり変わったということだろう。

日本の人口推移を、歴史として読み解く。
『人口から読む日本の歴史』読書ノート 鬼頭宏/著 2000年 講談社学術文庫鬼頭宏:1947年生まれ。専攻は日本経済史、歴史人口学『人口から読む日本の歴史』執筆者(同)『日本二千年の人口史』(1983年)を底本  〈少子化〉が社会問題の最中、そして私が課題と...

2020.9.15

44: 目的と目標

 〈目的と目標〉どう違うのだろうか? 辞書をひいても今一つわからないし、適当につかっている事例が多く、参考にならない。けれども、以下、私なりに区別してみよう。
 〈目的〉と〈目標〉は、同じではない。大学に進学したら、では何を学ぼうか。前者が目的で、目的が定まれば目標をもつようになる。目標は、ときに応じてしばしば変わるが、目的は目標ほどには変わらない。
 5歳児に野外活動で、○○に行くよと目的地を告げれば、だったらカエルやバッタをつかまえようと目標ができる。幼児は、自ら〈目的〉を決められないが、目的が告げられたら〈目標〉はスイッチを押したように点灯する。4,5歳ともなれば、バッタをつかまえたいから「どこかへ行こう!」と誘ってくることもしばしばある。目標を達成するには、目的が必要ということを学ぶ緒についているからだ。

 修学旅行を例にして具体的に考えよう。《6年生になったら修学旅行に行ける》これは、学校が設定したものではあるけれど、5年生にもなると、これを自己の《目的》に据えるようになる。目的に対して自己を律するようになる。自律しようとする心がさまざまな〈目標〉になる。ところが、コロナ禍を理由に、修学旅行が中止されると子どもは〈目的〉を失うことになる。目的が失われると、目標も同時に消え去る。ここで言えることは、学校行事は、学校だけに執行権があるのではないというだ。自律する心を失ったり、迷いを生じさせることが、子どもの成長に重大な障壁となるだろうことは容易に推測できる。
 では、コロナ禍で入学式の時期を失った子どもはどうか。1年生になろうとする6歳頃は、目的と目標を分けて意識できない。保育園や幼稚園を卒園したら小学校に行くという目的はおとなが設定したものだ。その目的を信頼して子どもは「1年生になったら……」と希望(目標)を抱く。その入学式が執り行われることなく学校が始まった。自律する心が芽ばえている5,6年生と異なるが、1年生の場合、バッタをつかまえたかったが、その目的地に行けなかった、ということになる。1年生の、夢・希望・目標を大切に育てることが、5,6年生の自律する心に結びつく。

 およそ2歳半までは目的も目標も存在しない。あかちゃんが、手を差し出しているママをめざして這い這いして進む姿は〈目標〉とは違うのだろう。2歳半を過ぎる頃から、子どもの要求が示される。すべり台に登りたい、ブランコに乗りたいなどと要求する。公園に行くという〈目的〉が習慣化されるからだ。やがて、ブランコに乗るために公園へ行こうと誘うようになる。5歳児にもなれば目標を達成するには目的が必要とわかるようになる。小学3,4年生頃は、〈目的〉が〈目標〉より優先されるようになり、5年生になると〈目的〉が〈目標〉より明確に優先となる。〈おとな〉になる──ということでもある。

2020.10.1

45: 動的平衡と渚と紙飛行機

 ヒトはプラモデル(人体模型)ではない。プラモデルは精巧であってもパーツでできている。これを否定することは簡単だ。ところが、パーツが足りないと不安になる。足りない部分は何かで補えるかもしれない。そういう不安を抱えている人は意外といる。
 コラーゲンと聞かされると効くような気がする。
──コラーゲンは、細胞と細胞の間隙を満たすクッションの役割を果たす重要なタンパク質である。肌の張りはコラーゲンが支えているといってもよい。ならば、コラーゲンを食べ物として外部からたくさん摂取すれば、衰えがちな肌の張りを取り戻すことができるだろうか。答えは端的に否である。──福岡伸一『動的平衡』(p76)
 福岡のこの書は、「生命(いのち)とは何か」を問うている。生命は時間の関数で、時間と共存している、という。
──全身の細胞が一つの例外もなく、動的な平衡状態にあり、日々、壊され、更新されている。皮膚が内側に折りたたまれた消化管や内臓の細胞も、絶え間なく壊されては作り出されている。細胞の分裂が起こらないとされる心臓や脳でさえ、個々の細胞の中身はどんどん壊され、新しい分子に置き換えられている。一見、永続的に見える骨や歯も、その内部では常に新陳代謝が進行し、壊されながら作り替えられているのである。──(p247)
 昨日の「私」は今日の「私」ではない。だったら、なぜ「記憶」が存在するのか。私という肉体はなぜ存在するのか。こういう物言いを難しいと思う人は、パーツを組み立てるプラモデルと人の違いを理解できないでいる。

 生命活動は留まることを知らず、休みなく動いている。寝ている間も働いている。あかちゃんがそうだし、幼児もそうだ。おとなしいか、ちょこまか動きまわっているという比較ではない。おとなも、死ぬまでそうなのだ。パーツを組み立てて完成(静止像)をめざすのでなく、動的な平衡状態が「生きている」ということなのだ。
 波が打ち寄せる渚。地球が回り続けている間、渚は絶えることはない。潮の満ち干は渚をダイナミックさせることになり、古代より生命を育んできた。渚を心地よいと思うとき、じつは動的平衡を受けいれているのではないだろうか。

 難しい表現で恐縮だが、以下、引用する。
──可変的でサスティナブルを特徴とする生命というイステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。──福岡伸一『動的平衡』(p232)
 子どもの可能性は、障碍の有無を超えて「無限」と示唆している。

 動的平衡を根拠とすると、生命は時間の関数で表される。

生命=f(x) x=時間

 x=0 のとき、死を意味する。xが0になるということは、体内の循環が止まる。生きているということは、x>0 で、代謝はかたときも休むことなく行われている。代謝を高めることが生命「活動」を支えることになる。
 紙飛行機を飛ばそう。なるべく遠くへ飛ばそうと思えば、自然落下を想定して角度を上に向けて飛ばす。空気をたくさん受けられるよう機体を工夫すれば、下向けに飛ばしても機首が上昇する。エイッと飛ばせば、機体の様子も、受ける空気もさまざまに変化する。動的平衡の効果で飛び続ける。
 子どもをとりまく環境は、さまざまに変化する。意図して見えることもあれば、気づかない・見えない環境のほうがより多く子どもをとりまいている。
 時間xはゼロになることはない。

子どもの成長=f(時間x)+変異

「変異」を加えてみた。変異を「子どもの主体性」と置き換えてよい。《生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。》と上述したようにパーツの選択ではなく「効果」の中身を考えたい。

(つづく)
山田利行 2020.10.15 連載中
▶子育ての確からしさを考える
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