「心」って、みんな、どう思ってんの?

 「我思う、ゆえに我あり。」これは、西洋のデカルト(1596~1650)が言ったこと。これが何を意味するのか? デカルトさんは、何を言おうとしているのか?
 「我」と言われるけれど、”我の心”まではわかりません。わかるのは、自分の心とからだしか……。

 幼い子が泣いていたら「どうしたの?」と尋ねることもできよう。見知らぬ他人だけど、乙女が泣いていたら気になる。気になるけれど「どうしたの?」と尋ねるには躊躇する。
 映画で泣けてしまうシーン。”泣きたい”から観に行った映画館だけど、スクリーンを見てるお客さまの多いこと。

2020.12.5

 誕生してすぐにあかちゃんは、自分に向けられた笑顔を即座に受けいれて、自分からも笑えるようになる。──こうしたことは、なぜか? メルロ=ポンティ(1908~1961 フランスの哲学者)は不思議に思った。このことを「幼児の対人関係」に著している。「心の理論」の研究が始まったのは1980年代ということだが、それより以前のことだ。

「心の理論」以前の「心」

  • メルロ=ポンティ・コレクション 3『幼児の対人関係』みすず書房 2001年
    • 木田元/編・滝浦静雄/訳
    • 1950~51年度の講義録
    • 〔目次〕
      • 幼児の対人関係
      • 表現と幼児のデッサン
      • 映画と新しい心理学
      • 人間と逆行性
      • 他者の知覚と対話
      • モースからクロード・レヴィ=ストロースへ
① 以下、目次「幼児の対人関係」より

そのようにして古典心理学では、私の身体は私に、あなたの身体はあなたに、体感によって把握され、認識されるというわけです。 ──p36

 私(山田)は哲学が苦手だ。これは、わかるかな?と思って関心がありそうな哲学書のそこを読むと、〈哲学というのは、読み始めると、わからなくなる〉。上記は、それでもわかりそうな気がする。「体感」とは自分で感じることのできる感覚、五感と言ってよいかもしれない。だから、自分のは当然ながら”わかる”が、他人(ひと)のことは推しはかれても所詮わからない、ということだろう。

あなた方は、私がどんなふうに自分の身体を感じているかを、思い浮かべることはできません。また私も、あなた方があなた方自身の身体をどう感じているかを、思い浮かべることはできません。──p37

 ①と同じことを言っている。古典心理学の時代はそうかもしれないけれど、現代の私たちは、相手を気遣って「しんどそう」と思ったり、映画を一緒にみて、細かいことは別にしても感動したことは同じかもしれないと思ったりする。

 〈他人経験〉という問題は、そこではいわば4つの項をもった一つの系として立てられています。第一に私、つまり私の「心理作用」があり、次に私が触覚や体感によって抱く私の身体像、つまりわれわれが簡単に〈私自身の身体の内受容的イメージ〉と呼んでいるものがあり、第三の項として、私に見えているような他人の身体、つまりわれわれが〈視覚的身体〉と呼ぶものがあります。最後に、これははなはだ蓋然的なものですが、第四の項として、わたしがまさに再構成したり推測したりしなければならぬもの、つまり他人がその視覚的身体によって私に示してくれる諸現象を通して、私が仮定したり想像したりする限りでの〈他人の「心理作用」なるもの〉、いいかえれば他人が自分自身の存在について感じている〈彼自身の感情〉というものがあるわけです。──p37

 文章は硬いけれど、読む側わたしたちの頭を柔らかくしよう。となれば、①②を哲学をする人たちはこのように考えるのだと割り切れる。

 ところが、メルロ=ポンティは、おもしろい。

幼児が笑いかけられたから笑う、というような〔とき、古典心理学の原理によって、〕幼児も、他人の笑顔と呼ばれている視覚的表現を再生するように、自分の顔の筋肉を動かさなければなりません。だが、どんなふうにして幼児がそれをするというのでしょうか。〈略〉 そうしたいくつかの古典的偏見を放棄するならば、その問題は解決に近づきます。──p40

 続けて……

「心理作用」は、きっちり自己自身に閉じこもって、「他人」はいっさい入りこめないといった一連の「意識の諸状態」ではありません。私の意識はまず世界に向かい、物に向かっており、それは何よりも〈世界に対する態度〉です。〈他人意識〉というものもまた、何にもまして、世界に対する一つの行動の仕方です。そうであってこそはじめて私は、他人の動作や彼の世界の扱い方のうちに、〈他人〉というものを見出すことができるわけでしょう。──p41

 ここは、むずかしくない。なぜなら、現代の私たちが常日頃、特に意識することなく実行していることだからだ。

むすび、として

 歴史的に、過去の人が「心」、特に〈他人〉の心をどのように捉えていたのか、私には勉強不足でわからない。以上のように、「古典心理学」というものがあったとして、そこでは、《私は私、あなたはあなた》という壁があったようだ。しかし、メルロ=ポンティが言うように〈あかちゃん〉を喩えにすれば、そこに模倣があり、古典心理学的な手続きによるものでないと、きっぱり否定している。

 《私は私、あなたはあなた》という口上は現代の今でも使われている。が、それは他者に立ち入らない、干渉しないという意味で、気持ちが通じ合わないということではない。そして、〈あかちゃん〉の場合は、歴史的な過去も現在も同じだが、では、「心」つまり他者の「心」に気づくようになるのは、成長して何歳ごろからだろうか。

 ここに「心」について考える意味がある。それだけではない。〈他者の心〉については、推し量るというだけでなく、脳生理学者(神経生理学者)が〈ミラーニューロン〉を発見している。意識以前に他者の行為はミラーニューロンによって生理的に自己の体内に伝わるということだ。

山田利行 2020.12.6記す
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