メモ書き「いのちに出会う保育」

保育士に贈るページ

はじめに

 野外体験活動保育マニュアルには3つの目的「五感・生命(いのち)・共感」を掲げている。乳幼児が、生活や遊びを通して、あるいは自身の発達において、体験活動にどういう意味(目的)をもたせればよいのだろうと私はずっと考えている。わからないことは多い。その謎解きをしながら、保育の現場やもう少し年長の子どもたちと実践を重ねている。

 2020年のある時期から「心の理論」に関心が向いた。一方、園で野外活動にかかわるようになった当初、園長から「いのちを子どもに(気づかせたい)」と命題をいただいていた。さらに〈自然教室〉「つみあげ pdf」というかたちを思いつきその実践を始めた1970年代前半から活動中心テーマのひとつは「いのちの発見」であった。それからの歳月を数えると50年をかけて《いのち》という大きなテーマについて、語れそうな糸口が見えて来た。

 じつはこうした謎解きは上記のような時系列ではない。極めて個人的なことで私は「死とは何か」について考えていた。2020年で私は70歳になった。十分に元気で、園の野外活動では2日連続の山歩きも平気だ。でもいずれは店仕舞がやってくる。このことを考えていると「他者」の存在が先で、他者の発見が自己につながることを「心の理論」で学んだ。(あれっ!)と驚いた。(もとに戻った!)

 卵子と精子が(縁はいろいろあるだろうが)結ばれた。このときが〈いのちの始まり〉だ。そして、他者が存在しなくなる、あるいは自己を意識できなくなる。このことは、必ずしも「死」を意味しない。この世に誕生し自己に目覚め、自己意識を失う。──こんなことを記せるようになったのはトシをとったほうびだろう。

 「いのち」に対するいただいた命題に向き合える準備ができたような気がする。とはいえ、哲学者でもないし、倫理学や宗教学者でもないし、心理学者や認知科学者でもない。シロートに過ぎないから「メモ書き」を冠し、正確を欠いたりや認識誤りに陥るかもしれないと断った上で、複雑だし備忘のために──と弁解をいっぱいしながらも、私なりに「いのち」について辿りついた知見を記そう。

野外における体験活動保育 運用指針(ひな形)
 このマニュアルは私家版(山田利行提案)です。50年に及ぶ個人的な経験から編んだもので完全とは言えません。もし事故が起きたら……の懸念で踏み切れない園の声もあります。一方、遊びの必要とその重要性を認識している園も多くあります。マニュアルに則しているから安全とは言...

1: ことの起こり ──保育士のみなさんに──

 あなたは、なぜ保育士になろうと思ったか? ここから問うのが「ことの起こり」にふさわしいだろう。大阪府高槻市のある保育園でこの問いをしたことがある。新人から古株までその場に20人ほどいた。「子どもが好きだから」が多くて当然のように思われるが「嫌いだったけれど保育士になってしまった」という声もあった。実習先の先生に誘われてなど、異口同音あったのだが、10年ほど前で楽しく懇談したこと以外よく憶えていない。笑いもあれば、涙をふく人もいた。けっこう盛り上がり、ワンパターンでなく、ロールプレイングゲームのようになった。古株の先生は、たまにはこういうのもいいなあとつぶやいていた。

 さて、この冊子(2021年春、冊子にする予定)でのテーマは「いのちを子どもに(気づかせたい)」ということだ。保育という仕事は、乳幼児=いのちそのものを預かる仕事だ。卒園式のとき、あかちゃんから5歳児まで見守ってきたことが思い出され、まさにいのちの成長を目の当たりにすることになる。ベテランであれば、こそ、一人として同じ子どもはいない。みんな違う。と、思うことだろう。類型的に感じることは確かに、ある。類型やタイプはあっても、子どもの育ち、環境はみんな違う。

 私が「自然」というものにかかわり始めたとき、そのときの導きは「生きている証拠を見つけよう」だった。証拠とするからには五感が必要だった。同じ景色、同じフィールドであっても、繰り返しフィールドに足を運び、生きもの(動物と限らない、植物も、生きとし生けるものすべて)と向き合うことで、表現できる・できないを問わず、そこで得たことは計り知れない。

 幼児に「いのち」をどう気づかせるか? 自分のいのち、他者(友達・親・きょうだい)のいのち、野外活動で出会うカエルやザリガニ、バッタ、ダンゴムシ、あるいは摘み取った花、紅葉した落ち葉や木の実などが「いのち」の対象だろうが、そもそも「いのち」に気づかせるとは、どういうことだろうか?
 幼児に限って「いのち」を気づかせる方法は、〈ともだち〉に対する〈おもいやり〉がキーワードでないかと私は思う。〈おもいやり〉が生まれる年齢は「心の理論」では4歳を待たねばならない。4歳未満では「いのち」を気づかせられないけれど、間主観性が成立する環境に留意することだろうと思う。
 ところで、ひとつ懸念がある。
 「レジリエンス」という言葉は、極めて過酷な例えば震災やトラウマから日本語として「立ち直る」のように使われる。それを中身にする子育ての本が出ている。立ち直りにくい子どもが増えているという。自己は、他者に習っていると思われることが多くあり、つまり「いのち」への気づきは、他者に対する〈おもいやり〉から培われることを念頭におけば、立ち直りにくいということは〈おもいやる〉頻度がいちじるしく欠けているという世相を背負っているのかもしれない。それは、私たちおとな乃至現代社会の課題ではないかと思う。

この項目 2020.12.31更新

2:「心の理論」、他者の心を読む能力

 〈「心」の理論〉ではなく〈「心の理論」〉だ。〈「心の理論」の理論〉でも、ない。《心とは何か?》というやっかいな難問だが、人間と同じ心をチンパンジーも持っているのだろうかと研究者は実験を続けている。「他者の心を読む類人猿」としたレポートが2017年に岩波書店発行『科学』1月号に掲載されている。「心の理論」について要領よく次のように解説されている。

 他者の心を読む能力は、社会生活においてもっとも重要な能力のひとつである。他者が何を考えているか、どのような気持ちでいるのかを察することで、協調したり、無用の衝突を避けたり、逆に出し抜いたりできる。他者の心を読む能力を、心理学では「心の理論」と呼ぶ。他者の心についての「理論」を構築する能力、という意味である。

ジュリア・ポール・キーナンほか著『うぬぼれる脳』(NHKブックス 2006年)では次のように解説されている。

他人もまた自分と同じような考えをもっているということを理解できる能力

 1歳、2歳の幼い子どもは名前を呼べば振り向く。あかちゃんも名前を呼ばれると重い頭を持ち上げて這い這いしてくる。しかし、名前を”自己”として、あるいは鏡に映る向こうの”自己”や、友達が好き好きしてくる”他者”の気持ちがわかるようになるには、かなりの時間(2~4年)かかるようだ。

1歳では無理だが、1歳半から2歳児は、他人の心的状態にいくらか気づいている

── J・W・アスティントン『子供はどのように心を発見するか』新曜社 1995年

7歳くらいまでに「他人にも自分と同じ心がある。しかし他人はそこに自分とは違う考え方をもっている」ということが理解できるようになる。これが「心の理論」である。

── 福岡伸一『動的平衡』木楽舎 2009年

 保育園の年長児は5~6歳だ。ということは、友達の気持ちや考えを推し量れない子がいる。クラス運営では、そういう子が少なからず含まれるということになる。

心の状態への意識的な気づきは、健常の4歳児に自己統制力が出現する必要条件になるとの興味ある可能性に注目しています。そして自分自身の心を理解するのは、自己統制力をいかに発揮するかへの洞察を深めるという、説得力ある示唆を行っています。

── ウタ・フリス『新版 自閉症の謎を解き明かす』東京書籍 2009年

 少々むずかしい表現だ。この書に限らず、友達の心に気づくようになるのは4歳からのようで、4歳未満つまり3歳以下では「ことごとく失敗する」という表現(実験結果)もある。クラス運営では、3歳児クラスで友達の心に気づく子どもが現れるということになる。

 「心の理論」の研究はどのように進んでいるのだろう。

 発達心理学は、人の心の発生と成長を考える学問と言える。しかし、名実ともにそう言えるようになったのは、「心の理論」研究が登場した1980年代以降のことであるかもしれない。

── 子安増生『心の理論』岩波書店 2000年

「心の理論」(Theory of Mind)に学ぶ
「心の理論」を学ぶと、3歳までは表れないが4歳になると表れるという表現がある。注意深く読むと、4歳になって出現するということで、個人差を考慮しながらも、4歳になると出現頻度が目立つというように読み違える。しかし、保育室で、4歳児クラスではそこに到達しない子が少なからず...

 「1980年代以降」とあるから、とても新しい研究だ。どうりで学校で習っていないわけだ。では、これ以前、心はどのように研究者はとらえていたのだろう?

私の身体は私に、あなたの身体はあなたに、体感によって把握され、認識される

── メルロ=ポンティ・コレクション 3『幼児の対人関係』みすず書房 2001年

 私が感じるように、あなたも感じているはずだ、と考えたようだ。現代の私たちは、相手を気遣って「しんどそう」と思ったり、映画を一緒にみて、細かいことは別にしても感動したところは同じかもしれないと思ったりする。古代から哲学者は話せばわかるというように考えていたようだ。
 友達に迷惑をかけてしまった幼児に向かって諭す行為は、古代の哲学者と何ら変わらないのかもしれない。乳幼児がどのようにして心を獲得していくかはわからないままだったが、上に引用したように「発達心理学は、人の心の発生と成長を考える学問と言える」までになったのだ。

「心」って、みんな、どう思ってんの?
 「我思う、ゆえに我あり。」これは、西洋のデカルト(1596~1650)が言ったこと。これが何を意味するのか? デカルトさんは、何を言おうとしているのか? 「我」と言われるけれど、"我の心"まではわかりません。わかるのは、自分の心とからだしか……。  幼い子が泣い...
── 他者先んじて自己生ず ──
── 山田利行の創作成句 2020.12 ── (1)自己と他者(2)「間主観性(かんしゅかんせい)」って何?(3)ミラーニューロンの発見(4)「共感する」とは? このページは書きかけです 2021.1.10 文献1『うぬぼれる脳』NHKブックス 2006...

この項目 2021.1.2更新

3:「共感する」は生得的らしい

 後述する「ミラーニューロン」が私たち肉体の一部として備わっているのであれば、「共感する」は意思によるのでなく生理的なことになる。あかちゃんは胎児のとき、母の声を感じていた。生まれてきて母に抱かれ、心臓音や母の声をからだで受けとめ安堵する──というストーリーでよいだろうか。つまり、あかちゃんも共感する能力をもっている。ミラーニューロンの存在に左右されるストーリーだが、生得的に共感する能力をあかちゃんがもっていることは確かなようだ。

この項目 2021.1.2更新

4: 間主観性(かんしゅかんせい)……あかちゃんの心

 あかちゃんと母は一体だ。この状態に「間主観性」という馴染みにくい用語が与えられている。母はおとなであり、自己が確立している。あかちゃんは自己が確立していない。あかちゃんは自身の心や体をどう感じているのだろうか。心としては「仮の自己」とでもという間主観性の状態にある。母から独立する前、心は母に支えられている。
 他者の心を読む能力(「心の理論」)は4歳を待つことになる。それまでに、間主観性から独り立ちし、自己が表出できるようになる。間主観性として自己が守られる”期限”は3歳の誕生日を待つことになるらしい。おかあさんは、3歳になるまで我が子のお世話で大変だ。
 入園年齢について3歳未満と定められている〈小規模保育園〉は、間主観性という心で満たされているといえるだろう。

この項目 2021.1.2更新

5: ミラーニューロンの発見 1996年

 ミラーは鏡。何かを映す鏡。ニューロンは脳にある神経細胞。鏡の役割をもつ神経細胞が脳のなかにあるという。イタリアの科学者が1996年に発見した。
 レストランでメニューを見て注文した。注文を待つ間、隣のテーブルでは別の客が注文していた料理が運ばれてきた。(美味しそうだあ)(注文を変えたいが無理だなあ……)(魚と肉で迷ったけれど、肉にすればよかった……)これがミラーニューロンの作用だ。過去に味わった経験が食べる前に想像できる。食経験が豊富なら、目で見ただけで想像がふくらむ。
 〈共感〉はミラーニューロンの仕業ということになる。新生児が間主観性を伴うのもミラーニューロンの仕業で、ミラーニューロンの発見者は「スーパーミラーニューロン」と名づけたりしている。ミラーニューロンの役割は未解明が多く、誕生前から備わっている理由は謎だ。進化のなかで受け継がれ続けているのだろうか。共感する能力は生得的なのだ。コミュニケーションに支障をきたす自閉症スペクトラムは、このミラーニューロンが関与する障碍ではないかと研究が続いている。

この項目 2021.1.2更新

6: 0,1,2歳の保育環境といのち

 0,1,2歳の保育環境といえば間主観性の理解が助けになる。もうひとつはベビーシュマだ。後者は、コンラート・ローレンツ(動物行動学者)がネーミングしたそうだ。生得的という教えは神秘的(霊性)であるし、これに救われる。子どもの可能性を最大限に生かしたいと思うのは、親であれば皆が望むところだろう。子育てを大事にしたいとき、肝腎なことは「子どもの主体性」の理解だ。このように用語を並べたり「理解」が続くと、子育ては、むずかしい。だから、様々な子育て模様となる。
 「いのち」をどう気づかせるか──野外活動の目的なのだが、あかちゃんに始まる子育てそのものが「いのち育て」だし、子ども自身が「いのち」に気づくということは、他者の発見ということだ。それは4歳の誕生日を待つことになる。
 とはいえ、お産して、母親が我が子を抱くことは自然なことで誰もがすること。けっしてむずかしいことではない。

母に抱かれて人間となる
 この問いを、保育士養成校の学生に私は投げかけている。当初、選択肢は2つで「2」はなかった。学生が「〈声をかける〉も入れたら?」とヒントをもらった。それ以来、3択になった。私がこの設問で問うようになったのは、ドキュメント「ヤノマミ」を観て学んだからだ。 母に抱...

 野外活動の目的テーマ「五感」は生得的とされる。「五感」の大切さを言うことは容易だが、その実行や理解は思いの外むずかしい。その原因のひとつは第六感とも言われる「直観」を五感理解から切り離さないこと、そして、宗教心とは別に誰にも「霊性」が潜む。五感と直観と霊性は、様々な体験のなかで場面に区別なく現れる。できるだけ豊富な体験を通して理解を深めたい。そのことが「心」と、心と等号で結べる(自己と他者の)「いのち」を豊かにする。

五感と直観と霊性
五感のおぼえかた  〈五感〉の5つを答えなさい。この問いには、簡単に答える方法がある。左右どちらでもよいから手を上にあげる。その手(指)を降ろして目をさわる。①視覚。すぐ下の鼻をさわる。②鼻=嗅覚(臭覚とも)。すぐ下の口をさわる(舌をさわるわけにいかないので)。③味覚。次...

この項目 2021.1.3更新

7: 他者の発見が、自己を確かにする

 「他者/自己」という言葉、「友達/自分」でも同じ意味になる。前者のような堅い言葉をつかわなくてもよいが、心理学は19世紀起原の学問で、それ以前は哲学だった名残ともいえる。
 砂場でおもちゃを取り合いするふたり。あっさりゆずる子もいれば砂を投げてしまう子もいる。「自己/自分」中心にみえる風景だ。もう少し年長になって、並んで歩こうとする子がいると思えば、よそ見に夢中になってしまう子もいる。「他者/友達」を意識できる子・まだ意識できない子が混じる、散歩の風景。

 脳に損傷を受けることで脳の機能が明らかになることがある。失われているにもかかわらず、その腕を動かそうという意思が働く。健常であれば想像することすら困難だ。自分を自分とわかるのは脳の右半球とする実証が多くある。右半球の前部と側頭部を損傷すると、鏡に映る自分を他人と思ってしまう例がある。視覚障碍者は点字本を左から右へ一気になぞる。点字の一つは6点で構成されているが、その一つ一つ、一字一字を読むのでなく、ピアノ鍵盤を左右に指を動かせば流れるような音がするように、点字本を読む。目視で読む能力を実現させる「脳の部分」が、視覚障碍者の場合、指の触覚を読む。このことは先天性の視覚障碍者に通用する話で中途失明者は点字を読むのに苦労しているそうだ。

 話を戻すと、自分を自分と認識するのは右脳説が有力だがまだ探究は続いている。右脳を主としながら、左脳の役割もあるのではないか、ということだ。0歳、1歳では鏡に映る自分を認識しない。このことは、自分を認識する脳の働きはまだ発達途上ということになる。そこで「間主観性」が登場する。この言葉は、哲学者メルロ=ポンティ(フランス 1908-1961)が発想したもので、彼は「間身体性」という言葉も発想している。心も体もあかちゃんのときは母と一心同体ということだろう。ベビーシュマが母の本能をくすぐり、間主観性(と間身体性)という大切な発達保障が担保される。このことで、3歳の誕生日頃、脳の局在箇所に自己認識する機能が備わるようになる。

 「他者/自己」は、これより後れる。1980年代以降に「心の理論」という考え方が始まり、古代心理学者に別れを告げ、自己が思うことをどうして他者がわかるのか、一方その反対、他者の気持ちがなぜ自分にわかるのか、そうした研究が本格的に進んだ。結果、他者の気持ちがわかるようになるのは4歳からで、3歳まではことごとく失敗するという。「ことごとく」はクエスチョンとしても、画期は極めて鮮明のようだ。自己があって他者があるという積木を積むような思考でなく、他者の存在が自己をより確かなものにする、ということだ。こうした「人間らしい」尊いことが4歳までの幼い心に生じるということだ。

 脳に損傷を受けることで脳の機能が破壊されるように、自己認識が脳によるものだということは、これに失敗することの恐ろしさを想起せざるを得ない。子どもの発達保障は、家庭の子育てという個人的なことでは役割が重すぎる。保育士にそれを求めても厳しいだろう。子育ては社会の責任である、という根拠になるだろう。福祉や教育が、幼い子どもの育ちに貢献するものであって欲しいと強く願う。

この項目 2021.1.5更新

8: 野外体験活動保育の実際とその評価

 「体験」+「活動」(乳幼児)=(学齢児)「学習」と考えてよいだろう。即ち「体験」は特殊・特別なことでなく、活動は体験とセットされて意味を為す。ここを確認すると、では、何を・どう・体験できる場を確保し、実践を進めていくのかということになる。私は「野外」における活動をメインにしてきたから「野外体験」と冠しているが、野外は必須ではなく一つの模範にすぎない。

 この写真は野外ではなく「園庭」で撮影されている。詳細は下記リンクを見ていただきたい。

K保育園(横浜)の園庭を写真で読みとる
 K保育園としたが、名誉のために記そう。Kは、川和保育園。全国私立保育園連盟が発行する「保育通信」2015年1月号の表紙に掲載され、私は仰天し羨ましく思った。撮影、宮原洋一とある。クレジットでは──冬の日は、みんなでたき火を囲んで おしゃべりしたり、おやつを食べたり…─...

 ところで、体験活動に何を求めればよいのだろうか。よりどころの一つになるのは、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー The Sense of Wonder』だ。
 次に、比較的容易にできることがある。

目線の高さで飛び降りる5歳児
 歩道を歩かないで段差のある溝との境、隣地の壁面を子どもは歩きたがる。「そんなとこ歩かないで…… あぶないから」とママは思う。段差の高さが増してきたところから飛び降りる。野外、山野でもそうだ。高い所から飛び降りようとする。子どもは好んで飛び降りる。子どもは飛び降りるもの...

 J・ギブソン(アメリカ 1904-1979)は、アフォーダンス affordance という用語を考案した。喩えとして適切でないかもしれないが ── 飛行機、これが編隊を組むとき、並行して飛行するとき機体同士の距離・高度差は訓練で身につけるという。視覚では、地上のように測る基準がないからだ。
 一方、幼児が道を歩いているとき、彼らは段差を見つけると、そこへ踏み込む。「危ないからやめてよ」と、おとなの声が聞こえてきそうだ。地表面を基準に、乳児は段差を感じとる。アフォーダンス理論がここに表れている。J・ギブソンは知覚心理学を創設した。幼児が段差になぜ導かれるか?は、アフォーダンスで説明できそうだ。子どもの発達理解のために、アフォーダンス理論をもっと取り入れては、と提案したい。

 このことと関連する・しないは不明だが、おとなはものごとを考えるとき視線を斜め上方に向けることが知られている。だが、子どもは違う。子どもはうつむき加減で考えている。思考のとき視線が上向きになるのは、いつからだろう。小学5,6年生は上向きになっているのではないかと私は仮説している。目線が下向きの動画を以下に掲げる。

動画|ルンバは10か月男児のお友達
video album 1分57秒 撮影 2016.11.6 制作 山田利行 ルンバ……ロボット掃除機(アイロボット社) 【見どころ】這い這いしている乳児(満10か月)が、その姿勢をさらに低くしてかがみます。乳児の関心事とからだのしなやかさが同調しています。 山田...
土を集める子どもたち
1月28日(2015年)の寒い朝、気温は氷点下3度。石巻、ひろぶちの子どもたちは元気だ。ダウンジャケット、手袋、あったかブーツを身につけ園庭で遊ぶ。東から昇った朝日が子どもや遊具を照らし明るい影をつくっていた。写真にとらえた時刻は8時56分。子どもはどんなに寒くても遊ぶのだ。 ...
階段道(かいだんみち)
幼児は、なぜ山登りが平気なのか?  「階段道」という言葉は一般的ではないだろう。住宅の階段があるところは階段室だ。社寺は100段を超える階段が多くあり話題になったりする。 そして、ハイキング道として整備されているところにも人の手によって作られた階段がある。それを「...

 山道を歩くと、飛び石を渡ったり、階段道があったり、段差がふつうで平坦な道は少ない。だから、幼児は山道を楽しいと感じるのだろうか。

この項目 2021.1.6更新

9: 保育室や園庭の環境

 民間の認可園を訪ねると、「訪ねたくなる保育園」という条件をつけてしまうが、一つとして同じものがなく個性的だ。園庭が広い上に、背後の山も園の所有で面積はヘクタール単位であったりする。公立の園(保育所)は画一的な印象をぬぐえないが、規模は千差万別だ。幼稚園はもちろん、認定こども園も規模は大きく園庭も広い。出入り口は同じでないが、老人福祉施設を併設しているところも少なくない。
 でも、以上は、おとなの眼。あかちゃんは、ほふく室で一日の大半をすごす。5歳児は広い園庭を走りまわっているわけでない。お気に入りの場所がある。入ったことのない部屋もある。裏山では一度も足を踏み入れたことがないと思ってしまうところもあるだろう。
 広ければよいというものではない。最も大切なことは、自分が所属する保育室のデザイン(飾り付けという意味ではない。子どもを誘導する動線、什器備品類、「コーナー遊び」をする場所など)と、園庭に心わくわくする場所があるか ── ということだろう。

 都会と田舎ではどうか。保育の始まりは、明治期においては都会の貧困と農繁期の水難事故だ。保育が福祉事業たる所以だ。幼児教育の始まりは、保育の始まりと一線を画されている。それを指摘するだけにして、しかし、認定こども園という制度が2015年に始まり(それ以前より、名称だけはスタートしていた)、子どもの発達を保障しようという社会保障制度により子どもの幸せを願う社会に進んでいると私は信じたい。

 少し脱線気味だ。戻す。保育室は空調がゆきとどき、サッシ枠の窓で囲まれている。昔の縁側では、蚊にさされないよう蝿がとまらないよう婆さんがうちわで昼寝する孫を扇いだ。のどかな風景だ。これを保育業務に望もうとは思わない。でも、大気(空気)を感じながらスヤスヤ眠れることは、極めて大切ではないだろうか。「いのちに出会う」ということは自らのこうした体験を通して修得するものではないだろうか。証明できないが……。

 はだし保育の実際をご存じだろうか。寒冷地と温暖な地域とで一概に言えないが、子どもは「はだし(裸足)」が平気だ。夏に裸足でいられる子ども(幼児)は、冬でも裸足で平気だ。夏の園庭には水たまりがある。裸足のあかちゃんはそこを這う。そして坐る。お尻は水たまり。坐れば泥をつかむ。つかめば口にもっていく。私はこういう場面に出会うと、あかちゃんの3年先、4年先、5年先、たまらなく希望が見えてくる。

この項目 2021.1.6更新

10: いきものを飼う・育てる

 いきものを飼う・育てるは、むずかしい。いのちを守るだけでなく、なんのために飼う・育てるかを問うことも、曖昧にしてしまいやすい。
 「(継続)観察」という言葉がある。幼児(小学2年生まで)は、「(継続)観察」は出来ないと私は考えている。「観察する」ということは、継続を前提にしている。観察した結果は事後以降に生かすということだろう。こうした課題による学習を幼児(小学2年生まで)に負わせるのは能力を超えていると思う。
 サツマイモを例にしよう。イモ苗を植えて、その”観察”を絵に描いて、あるいは造形工作して記録することはよく行われる。これは良しとしよう。そして、収穫。途中の草取りやお世話もあるだろう。それらの、一日の記録を何かで残すことは必要と積極的に良しとしよう。記録があるから(記録にとっておかなくても)苗植えの記憶を収穫に結びつけることは幼児に可能だ。しかし、その収穫や記録を評価し、”次は”こうしようということにならない。野外活動で最も大切にしなくてはならないことは、参加した子ども皆にとって楽しいイベントにすることだ。そのことが、今後の〈やる気〉の基礎となる。収穫後、子どもが「どうせ、園に帰ったら絵を描かせられる」と思えば失敗だ。楽しかった思い出を記録するか、記録するために思い出イベントを行うのか、こうしたことはありそうなので、よく考えて欲しい。少なくとも幼児にとっての体験活動は学習活動であってはならない。このことは第8項目にも示した。

 快・不快は脳の生理からもよく知られている。快感は脳内でセロトニンやドーパミンが放出される。子どもに意欲をもたせようと思えば、セロトニンやドーパミンをどうすれば放出されるかを意図すればよい。つまり、楽しいことが優先されてよい。

 さて、子どもは、たとえば、カエルをつかまえると持って帰りたいと言う。カエルを自身がつかまえると、あるいは誰かがつかまえているのを見ると、ドーパミンが放出され興奮し「欲しい」と思ってしまう。この状況下で、飼う・飼えないの議論をしても、気持ちを整理させることは困難だ。30分、1時間、できれば1時間半から2時間経過すると、面倒になってというか、満足してしまい、「放す」という子が出てくる。先生が「もう放してあげたら」と声かけすれば、簡単に同意して「放してあげる」と言い、放すことで気分を良くすることが多々ある。
 このことから、カエルを発見できるその場所に、少なくとも30分、できれば1時間半から2時間滞在できる野外活動計画にしておけばよいということになる。即ち、飼う・飼えないの解決は子どもの課題でなく、おとな(先生)の課題ということだ。1時間半経過しても「飼いたい」と思い続けている場合の解決法はここでは示さない・示せない。私は、飼ってみるしかないと思う。だから、いきものを飼う・育てるは、むずかしい。

 こんな話を聞かされた。農村地域の保育園で、園長自身子どもの頃、カエルを地面に叩きつけ死んだカエルをひもに結わえてザリガニをとった。いのちの尊厳を教えたい、身につけさせたいと思うとき、教育機関として現代では採用できない方法だろう。
 小学生の高学年にニワトリを絞め、食肉を体験させる教育的イベントがある。私自身、体験がない。周到な教育課程で行うなら方法もあろうが、野外活動イベントとして生殺与奪が可能な場面は極めて限られるだろう。

 枝を折ったら「イタイ(痛い)、イタイと言うよ」と擬人化して説教するのもどうかと思う。枝をなぜ折り取ったらよくないのか、向き合ってしっかり心に届くよう説くことが大切だ。

 飼っていて、死んだらどうするか? 一度、二度なら”お墓”も良かろう。しかし、続くなら、飼うことを止めることだ。子どもと話しあって決めたことであっても、継続観察が幼児には困難なように、飼うとなれば〈おとな(先生)〉が、死なせない・飼い続けるという覚悟がいる。シーズン中飼い続けるのでなく、次回の野外活動では放すと決めておき、放すイベントを織り込むことは対処法になる。

 お勧めしたいのは、チョウの羽化、セミの羽化だ。羽化するタイミングは〈おとな(先生)〉の経験・学習が必要だが、同時進行で、子どもと体験してもよい。

はじめて出会う〈ともだち〉自然
 だんごむしって、どうして子どもに人気があるの? 植木鉢やレンガの下にいてなんなくつまめる。可愛いわけはないだろう。まるまって…… 足をひろげればバタバタしている。こわいカマキリをつかもうとする幼児。 ザリガニにも挑戦しようとする。 飛んでいるちょうをわけもなく追いかけ...

この項目 2021.1.7更新

11: 園庭の、いきもの環境

 園庭とは、土があり砂場のある場所だ。通常は地上階にあるが、用地確保が困難な場合、屋上に配置されていることもある。地上階で確保できないときは、園庭に与えられている意味をよく理解された上で、工夫はなかなかむずかしいと思うものの日射しを浴びる心地よい時間を確保したい。
 おとなが歓ぶ園庭と、子どもが楽しいと感じる園庭は違う。自然に対する見方が異なるからだ。たとえば、桜が満開になると美しい。本格的な春がやってきたと思い、おとなは心地よい。幼児はどうか。子どもの感性は〈おとなの感性〉が映りやすく、満開の桜を子どもも愛でるとは思う。一方、おとなはあまり関心をもたないが、吹きだまりに寄せられた花びらを、幼児は拾い集める。

 登りやすい木がありば、必ず登る。美しく手入れの行き届いた花壇に興味を示さないが、そこにチョウが飛んできたら、必ず追いかける。花壇に踏み込みたい気分。管理され手入れの行き届いた芝生を、ある保育園で見つけた。園長に「ここは自由に子どもが入って遊べるのですか?」と訊ねると、「決められた時間だけ開放しています」とのこと。園庭の中央、園庭面積の半分を占める。見学に訪れた親たちは綺麗な園と思うだろう。この園の倉庫のひとつは鼓笛隊の楽器でいっぱいだった。有効活用されていないスペースにがっかりしたものだ。
 たくさんの花が美しく咲きそろっていると、水やりは誰がしているのだろうと思う。花に限らない。緑が多ければ多いほど、水やりの苦労がしのばれる。水やりにまっとうな報酬が払われているのだろうか。ビオトープも同様。過去の誰かの発案でビオトープを建設したが、管理が大変だ。美しく保存され機能していれば、そこには無償の労働があるのではと私は想像する。

 指針や要領に「環境」項目があり、園庭の設計や運営は要(かなめ)であって付属物ではない。認可基準の広さだけでなく内容も問われなければならない。園庭に恵まれていても、後述するが「散歩」は必要だ。そして、散歩とは別に「野外活動」も必要だ。順序を変えると、散歩や野外活動への情熱を「園庭」にも向けて欲しい。なぜなら、園庭は保育の日常だから。

 散歩や野外活動で、子どもは花をよく摘む。「ママにあげる」とつぶやきながら摘んでいる。「パパに……」を耳にすることもあるが、ママが優勢勝ちだ。なぜだか、わからない。手に握られた花を、園に戻ってきてからは、子どもはすぐに忘れて気にならなくなるのだが、しばらくのあいだだけでもコップなどに水を入れて飾ってあげて欲しい。

創作はらっぱ
 「はらっぱ」という言葉が遊び場を指すと体験的にわかる年代はどれくらいだろうか。記憶では、1970年代、急速に「はらっぱ」が消えた。空き地(はらっぱ)は至る処フェンスで囲われ、子どもが自由に出入りできる場所ではなくなった。 私が「はらっぱ」で遊んだのは、小学生低学年がピ...

この項目 2021.1.7更新

12:「食べる」ということ

 我が子には、たくさんの体験をさせたいと思う。小学生も高学年であれば、どこかに出かけたり、教育施設の体験プログラムなどに参加させてみようかと思う。幼児では、親が連れ出して一緒に遊んでみようと思う。「体験」はさまざまな場面で多用されるが、私は「体験」の価値を明らかにするために、体験を〈3つ〉に定義して提案している。

《3つの体験》& ハートスケール
 我が子には、たくさんの体験をさせたいと思う。小学生も高学年であれば、どこかに出かけたり、教育施設の体験プログラムなどに参加させてみようかと思う。幼児では、親が連れ出して一緒に遊んでみようと思う。「体験」はさまざまな場面で多用されるが、本稿では、体験を《3つ》に定義して...

 この3つめの体験を「食べる体験」としている。1つめ、2つめは、「感動する体験/繰り返す体験」でこの2つはイベント的(非日常)体験だ。これと比べて、日常体験として「食べる体験」の名称を与えている。
 体験を〈3つ〉に定義した場合の「食べる体験」という名称は、日常行為の象徴として「食べる」を採用した。

 ところで、ここでは「食べる」行為としての意味、〈いのちに出会う〉に沿って述べよう。ある意味、食育と共通する点もあるだろう。
 この議論は、食生活の専門家、食育の実践活動家たち多くの人々がいて、素人の私の出番はない。ないけれど、この項目を掲げておくことに意味はあるだろう。〈いのちに出会う〉というテーマを追究しているとき、食べる行為の日常が〈いのち〉そのものだから。しかし、次にあげる参考文献のように、幼い子どもがいる家庭の食卓事情は貧困問題と併せて考えれば、現代社会の極めて重大な問題と私は思う。〈日々育ちつつある〉子どもの発達保障を思えば待ったなしだろう。給食に力点を置いている園はどこもで例外なし、という表現は適切でないかもしれないが、そうした取り組みと「いのちに出会う保育」はセットであることが必須と思える。

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13: 冒険と探検

 野外活動施設や、子どもを対象とした遊戯施設では「ぼうけん/たんけん」を施設やイベントの名称によく使用されている。親しみやすさ基準で、深く検討したわけでないだろう。それはそれでよいが、私はその延長線上で使用していない。
 前人未踏の冒険や単独行と報道で知るとき、補給が無いなど冒険の過酷を想像する。しかし、実際は多くの支援を受けて「冒険」は成立している。資金や資材確保の支援によって冒険は支えられている。冒険者がめざそうとしていることに、冒険の当事者でない多くの人が目的に賛同している。探検は、過酷・危険について冒険と差異のないこともあるが、学術探検とも称されるように、未知の分野を開拓しようという意気込みでもって周到な計画が用意され実施に及ぶ。

 胎内から生まれ出ようとするとき、その出産において、母も子も冒険なのだ。産科の医師は先進国の日本においてもそのように認識し教育されている。子が誕生したとき、母の無事を同時に確かめ安堵しているはずだ。
 あかちゃんは、いのちを生ききるために五感をフルに活用している。──あかちゃんは冒険家として生まれた──と私は形容している。その冒険家は、愛という名の支援を受け、やがて探検家になる。園庭を裸足で這うあかちゃんは冒険家で、山道を歩く幼児は探検家なのだ。だから、〈おとな〉は、冒険するあかちゃんや、探検に臨む幼児を、後方からサポートしよう、と呼びかけたい。

母に抱かれて人間となる 1 ヤノマミ編
 〈ヤノマミ〉とは、彼らの言葉で「人間」という意味だ。彼らはブラジルとベネズエラに跨る深い森に生きる南米の先住民で、人口は推定二万五千人から三万人。「文明化」が著しい先住民にあって、原初から続く伝統や風習を保つ極めて稀な部族だった。(p18)  NHK取材班が、2...

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14: 野外活動での危険

 危険を警告されるにしても、的確な指摘があると参考になると思う。幼児の活動可能な範囲では〈スズメバチ〉が最もリスクが大きいだろう。それも9~11月の時期で、他のシーズンはリスクが少ない。となれば、スズメバチを同定できるよう形態や生態を知る必要がある。
 マムシは「こわい」とよく言われる。マムシに対しては、極めて接近した場合に危険で、それも踏みつけたり、潜んでいる石や岩を取り除いたときに襲われるなど、つまり至近距離に限られる。幼児の行動でそのような危険に遭遇することは想定しにくい。勝手に草むらに入らないとさせるだけで回避できる。
 動物に出会うことの危険よりも、溝に落ちたり、川・池などでの水難事故に遭うリスクのほうが大きいだろう。子どもの用心深さでもって、落ちそうな「土の道」の端は歩かないが、コンクリートで固められた道の端が断崖であっても、そこは歩いてしまう。友達とすれ違うなどで衝突し暗転と化す。
 気づきにくいが、背負う荷物の重さ、つまり、リュックサック重量を軽くして身軽にしておくことが肝要だ。2500グラムを限度とするのがよいだろう。
 危険回避で最も有効な対策は、目的地の下見とそれに基づいた活動計画だ。面倒がらず下見と計画をおろそかにしないことだ。

野外活動で危険を回避するには
目次その1 このページその2 野外活動で遭遇する動物などの危険──野外は、危険がいっぱい! 要点 「不快」と「危険」の区別をする。事故は複数の原因があわさって起きる。「こわい」を強要しない。励ますことがケガにつながる。行動中の体力回復は早くみえても、翌朝に熱を出しや...

この項目 2021.1.8更新

15: 世界観を育てる「散歩」

 子ども時代によく遊んだ場所を訪ねたとき、(こんなに近かったのか!)の思いをしたおとなは多い。幼児・小学生は、その行動半径が世界観だ。世界の広さを感じるということは、文化とその価値を身につけるということだ。園庭が広くて魅力のある場所であっても、園から飛び出すことが大切なのだ。
 子どもの列に車が突っ込むという痛ましい事故が起きている。事故を回避する責任は引率する側にもあるのだろうか。車と人が交差しないまちづくりを求めたいが主張するに留めよう。

 3歳児は、どれほどの距離を歩く・歩けるのだろうか。500メートルがやっとで、親子で歩けば抱っこをせがむだろう。一方で、2キロの山道を歩く幼児に出会ったこともある。散歩のもつ意味は深い。
 散歩で列をなすとき、前方と空きすぎない適度な間隔で歩いて欲しい。これがなかなかむずかしい。自分が遅れている、空きすぎた間を詰めようと思う心は、5歳児クラスはほぼ出来るが、4歳児クラスでは乱れがちだ。このことは「他者/自己」と関係するのかもしれない。子どもの不注意から列が乱れるのではなさそうだ。

子どもの、行動半径と世界観
 「行動半径」という話をしよう。もとは軍事用語で軍艦や軍用機が燃料補給しないで往復できる距離の片道のこと。これが社会生活に転用され、知的空間または地理的範囲(距離)につかわれる。これを、子どもに援用しよう。 かつて、子どもの行動半径は500mあったという。それがやがて100mに...

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16: 遊びのアイテム

 遊びの何が大事なんやろ? 某大学人間発達学部の大学院生から、修士論文作成にあたって依頼文をもらった。2012年のこと。── 幼児教育にとって遊びが大切な事は自明のように思われ、幼稚園教育要領にも、保育所保育指針にも、「遊びは、遊ぶこと自体が目的であり、~……」とその考え方も明確に出ており、遊びという文字は実に200回以上(要領275回、指針226回)登場してきています。けれども、保育者養成のカリキュラムには「遊び論」という科目はおかれていません。そこに注目し、遊び観と実践の関係にも着目しながら研究を始めています ── と依頼文は続く。〈遊び〉の掲載数をよくも数えたものだ。ちなみに、私が自分で名づけた保育士養成校での担当科目は「自然と外遊び」である。
 養成校の学生は「どの先生も似たようなことを言う」と言う。〈遊び〉の大切さは、講師間で共通しているだろう。だから、上記の数字になるのだ。
 では、そのキーワードになる〈遊び〉とは何なのか。関係する文献を開いて、遊びの定義から始まるときは、おもしろくない。遊びの解釈や定義を並べたところで、保育士をめざす学生に役立つと私は思えない。すると、持論を展開するものになってしまう。私の、この一連の書きものも持論の類いと言われてしまう懸念もある。重要とされながら〈遊び〉を容易には説くものがない。〈遊び〉のどこに着目するのか、ということになるのだろう。
 そこで、具体的に〈遊び〉銘柄をとりあげ、必要に応じて整理を試みたいとしているのが《遊びのアイテム》だ。

遊びのアイテム
 今どきの「かん(缶)」は勢いよく蹴ると1回でへこんでしまう。だから、かんけりをするときはアルミ缶ではなくトマト缶のような鉄製がよい。逃げてよい範囲は決めなくてよい。あまり遠くに逃げたらこの遊びはおもしろくないからだ。かんけりは、まだまだ奥が深い……。(2015.12....

この項目 2021.1.8更新

17: 昼と夜 …… 視点を変えてみる

 幼児が保育で夜を体験できるのは、お泊まり保育だろう。日没時刻を事前に確認しておき、おひさまが沈んでいく景色を楽しもう。数分で体験できるので、お勧めだ。
 昼と夜の自然観察は幼児には無理がある。夜は危険が増えること、変化やその比較は荷が重い。変化を楽しむ程度にしておきたい。〈昼と夜〉と題した理由は、このような対照を多くとりいれるとよい。

  • たとえば、……
    • 葉の〈表と裏〉
    • 木の肌の〈ツルツルとザラザラ〉
    • 森のなか〈明るいところ、暗いところ〉
    • スズメとハト〈歩くとき、足をどうしているかな?〉
    • 〈山の頂上から見える景色、谷は水が流れている〉の体験
    • 仰向け(寝転ぶ体位が肝要)になって空を見る。※視点を変えてみる

 視点を変えることで、フィールドの活用が倍加する。いのちの多様性を感じとることは〈他者〉の存在を認めることになり、そのことが〈自己〉の発見にむすびつく。〈自己の発見=内言〉を蓄えておくことは、未来に、飛躍を約束するだろう。

体験活動stage
 幼児を対象とする野外体験活動はその実現のためにはあかちゃんのときからの準備、考え方が必要と思う。年寄りのノスタルジアになるだろうが、縁側で昼寝するあかちゃんが蚊にさされないよう、うちわで仰いでいる婆さんのおもいやりを想い出す。サッシで閉じられた空間をエアコンで温度調節...

この項目 2021.1.8更新

18: 野外体験活動保育計画 ── 花緑命水……

 「散歩」は計画の対象外。第15項目にその必要を記したので、3歳児をメインで計画、実行されたい。ここでは、4歳児と5歳児を念頭においた計画になる。
 野外活動の目的は、マニュアルに示した「五感/生命(いのち)/共感」だが、これを実現させるには具体的な行動目標が必要だ。経験豊富なスタッフが担当するだけでなく、日頃から子どもたちの性格などを知り尽くしている担任保育士らとの共有が大事だ。

 私は過去、中国人指導者に、保育における野外活動をどのように説明すれば習得しやすいだろうか思案し、漢字1文字で表現することに辿りついた。《花緑命水空香風食色星火光》12の漢字で、子どもの発達に必要な要素が表現できる、と思う。
 4月に花をあて、3月に光をあてている。4月に桜の花が開きやっと暖かくなってくる。草木の芽吹きが盛んになり、常緑樹は落葉盛んとなり新緑の季節となる。毛虫がぞろぞろ這い出てくる頃、野鳥は子育てに忙しい。命が育つとき。── というふうに、考えた。季節は進み、2月は寒い。だから、火が欲しい。寒い中でも日中の時間が長くなり、太陽(光)は地を暖める。進級、進学の季節、光が感じられるときだ。

 子どもはの如く輝き、枝葉のが伸びる如く育つ。森でを育む営みがあり、清きは音を放つ。高くまでりを届けるに誘われ天地を旅し、遊び、べる幸せ。変化自在のに気づき、さらに求めて夜空を仰ぐ。天空あまたのは太陽を産み、燃え盛ると為し子どもを育つ。


 該当する月とそれに対応する漢字に拘らなくてよい。通年でかまわない。ただし、それだと散漫になって忘れたり身につきにくいので、たとえば、6月には「命」を考えようと意識するのがよいかなと思う。

この項目 2021.1.9更新

19: 年間/月間計画

 年間(月間)計画の案を示そう。

 「要素(集)」とあるのは、漢字要素の縦横クロス144のセルに相当。計画立案の際、ヒントをメモ書きするなど活用されたい。なお、記入用白紙(エクセル形式)はここをクリック

季節週 / 年52週 / 六季
 春・夏・秋・冬。これが四季だ。では「梅雨」はこの四季のうち、どこに所属するのだろうか。春と夏の間に「梅雨」を独立させることが実感だろう。少なくとも五季になる。語呂合わせに「四季」はよいかもしれないが、実感は違う。梅雨は寒い日があり、梅雨末期の豪雨は夏の報せだ。五季とし...

この項目 2021.1.9更新

20: その都度の実行計画

 実行計画の案を示そう。

この項目 2021.1.9更新

21:〈いのちに出会う〉は〈ともだちに出会う〉と同じ

 この「おわりに」に到達するまでに、私は50年かかった。50年前の1970年代当初は〈いのち〉と〈ともだち〉は接点がまったくなく、「生きている証拠を見つけよう」をテーマにして自然を探索していた。自然に気づく、または、自然を感じる体験は小学1年生でも遅いと思い、1970年代後半、自ら保育の世界に飛び込んだ。にもかかわらず、〈いのち〉はすぐそばにいたのに、そういう観点はなかった。そして、この論考、「いのちに出会う保育」を記すことで、やっと〈いのち〉と〈ともだち〉が結びついた。
 あかちゃんは心を豊かにし、まずは自己に気づく。鏡に映る自分と遊ぶ。それは、後に気づく自己とは異なる”自分”だ。間主観性という表現で、およそ3歳までは母と一体なのだ。生命体として不思議な世界だ。

 乳幼児は〈自身を含めて、年齢の数で遊ぶ〉と、私は捉えている。間主観性を学んだ今、0歳、1歳から自身を引き去れば、マイナスか0だ。つまり、〈ともだち〉は生じず、その数値が間主観性を表す。2歳になって、2歳-1(自身)=1人となり、1人の〈ともだち〉を得る。これは真に〈ともだち〉だろうか。まだ、間主観性が勝っているのだろう。3歳になって〈ともだち〉は2人となり、〈他者〉がその姿を現す。4歳の誕生日が過ぎると「心の理論」は、〈他者〉=〈ともだち〉がわかるようになるという。認知学者が行ってきた多くの実験データーが実証している。

 野外活動で、散歩で、花を摘み、チョウを追う。カエルを初めてつかみ、つかめるようになった自分に気づく。これ以上くどく説明する必要はないだろう。〈他者〉に気づかされる〈自己/自分〉がいる。〈ともだちに出会う〉は〈いのちに出会う〉と同じなのだ。

年齢の数で遊ぶ──「集団」の意味
 0歳は母の世話になり、1歳では1人で遊ぶ。2歳では誰かと対になって遊ぶ場面が見られる。3歳になると3人で遊べるようになる。自分を含めての数なので、3歳では2人の友達と遊べるということだ。2歳の対になっている相手は「友達」とは呼べない。しかし、3歳になると、だれそれちゃんと名前...

この項目 2021.1.10更新

22: 子どもをとりまく環境の歴史的考察

 遊びの必要条件は「三間」といわれる。①仲 ②時 ③空。遊ぶ仲間としての友達、あそんでいる時間、遊ぶ場所(空間)。学齢に達すると、この3つの条件は、すべて欠くのが現代だ。保育園では、条件がそろう。保育園時代でそろっているものが、学齢に達するとすべて欠く。指針や要領で大切とされている遊びが、小学生になると大切でなくなる、ということはない。こうした断絶的環境変化は、おとな社会の責任、課題であろう。
 3つの条件がそろわなくなったのは最近ではなく、私の子どもの頃から始まっている。一つはクルマ社会。一つは欲しいものが簡単に手にすることができる”豊かさ”がもたらした。こうした世の中で育った子らが、すでに子育て世代になっている。保育士の大半は、十分に遊んできた世代でない。だから、こうした考察や議論は、”評論”に流れやすい。
 1年の成長が貴重で、今まさに育ちつつある子ども(乳幼児)を目の前にして、私は評論家でありたくない。遊びに困難な時代であっても、では、今、何が子どもたちのために出来るかを問い続け、実践する手を止めたくない。

 1999年12月に始まる新型コロナウイルスによる災禍に全世界が襲われ、今も勢いを増して感染が拡がっている。感染を拡げないためには、人と人との出会いを制限しなければならない。外出はままならず、公園で遊ぶ自由も奪われている。〈他者/ともだち〉と出会わずして、その頻度を少なくして、どうして心を豊かにすることができようか。
 コロナ禍の今だからでなく、子どもが育つ遊びの環境を、なんとかして回復させたいもののさらに後退を余儀なくされるのは、つらい。

 子ども苦難の時代といってよいだろう。〈豊かさ/便利〉と引き換えに子どもが犠牲になっている。これを評論に終わらせないために、〈継続して行う〉を条件に、実行できそうなことに着手して欲しい。

この項目 2021.1.9更新


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豊かさとは何か、を問う〈1〉
豊かさとは何か、を問うこのページ食と家庭の崩壊 ── 2冊の本で考える村の女は眠れない | 詩人:草野比佐男坂本遼(1959年)『きょうも生きて』日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか豊かさとは何か、を問う《まとめ》 執筆者/山田利行原題「子供の手を虫歯にした...
連載:擬育(育てるは似せること)第2期
擬育(ぎいく):造語  この連載は今年2021年12月まで続けることとします。第1期は、そのとき・そのとき思うこと・思いついたことを記してきました。そのうち何を自分が書いているんだか、わからなくなってきた。連載39を一区切りとし第2期このページに移りました。第2期...