「泣く」を考える

こんにちは月曜日の朝、保育園の庭先で母の手を握ったまま離れない。目には涙。「どうするの? ママ、行ってもいい?」 うなだれて黙ったままの5歳児。0歳児クラスでは担当の先生がお休みだから、ご機嫌ななめの赤ちゃんが涙で何かを訴えている。泣き顔に隠れた心を読みとる保育士はエライなあ。(2017.1.29)


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出生時、赤ちゃんに涙をみない

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コウノトリの声を知る者はいない。鳥は囀る(さえずる)ことでパートナーを呼び寄せるが、コウノトリは大きなくちばしを叩き合わせることで鳴き声の代用としている。鳥の鳴き声はバードウォッチャーにとって識別の優れた判断材料だ。

牛はモォーと鳴き、山羊はメェーと鳴く。うさぎは「ピョンピョンと鳴く」と飛び跳ねる様子を幼児に見せると、喜び同調してピョンピョンと飛び跳ねる。うさぎの鳴き声はピョンピョンではない。では、なんと鳴くのか。うさぎを飼うとその鳴き声を知る機会に遭遇するだろう。

犬はワンワン、猫はニャオ。そして、ヒトの赤ちゃんが産まれ出るときはオギャーと”泣く”。人間の場合、「鳴く」という用字は使わない。

新明解国語辞典第三版によると、「泣く・鳴く」は、人間の赤ちゃんの場合「言葉にならぬ声で訴える」ことをさし、動物の場合は「鳴く(啼く)」と書く、とある。

「泣く」の第一義は──悲しみ・苦しみなどを押えることが出来ず〔=言葉にならないで〕、涙が(にじみ)出る。──とある。

古典基礎語辞典(大野晋 2011年)によると、「泣く」は──人が悲哀・苦痛・怒り・感動などの感情により、涙を流し声をあげて訴える。──とある。「鳴く」は──鳥・虫・獣などが声を出す。──とある。

ところで、ヒトの赤ちゃんが母の胎内から産まれ出るとき、見守る人たちが待っている声を「産声(うぶごえ)」という。

医学上の説明では、肺呼吸を始めるときの生理的現象*1によるものだが、元気な誕生を報せることだから、めでたい。涙を伴わないし、もちろん感情から発せられるものでもない。

  • *1牛、山羊などヒトと同じ哺乳動物に産声はないようだ。ではなぜヒトにだけ産声が発せられるのだろうか。

こうした産声であっても、「泣く」という表現・表記を使用することは一般的だ。

「涙を流して」「泣く」ようになるのは、いつからだろうか。

その前に、涙は、どこから出るのだろうか。目(角膜)はいっときたりとも乾いてはならぬからこれを保護するため、目には涙腺という器官がある。感情によって溢れ出る涙は涙腺では細すぎて役に立たないそうだ。したがって、感情からほとばしる涙は、涙腺から出ているのではないらしい。「らしい」というのは、生理的でない涙の正体はまだ未解明のようだ。大粒の涙が感情と結びついていることに興味つきない。

そして、さて、赤ちゃんが、大粒の涙を流してみせる、つまり、感情を伴う涙はいつ出現するのだろうか。

0歳児クラスの保育室で涙をみることはある。初めての保育園で「慣らし保育」の際、子どもの目に涙をみる。これを遡って、0歳の子どもは、いつ感情を伴う涙をみせるのだろうか。そして、じつは、ここで難問がひとつある。それは、0歳の子どもの「感情」とは何か、であり、果たして、0歳児の涙に感情が果たして伴っているのだろうか。

まず確認しておく必要があるのは、出生時は涙を流していない、ということだ。その涙を流さないにもかかわらず、わたしたちおとなは「(赤ちゃんが) 泣く」と表現する。

そして、そう遠くない時機*2、赤ちゃんの目に、大粒の涙をみることになる。

  • *2生後6か月までには、赤ちゃんの目に大粒の涙をみるようだ。

5歳の、4歳の、3歳の、子どもの目に浮かぶ涙は感情が伴っているだろうと想像できる。では、2歳ではどうか。1歳ではどうか。そして、「泣く」を考えるとき、0歳のそれと同一でないと知るのが妥当ではないか。

言葉の機能をもつ”泣き”

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守屋光雄*3は出生時に始まる赤ちゃんの”泣き”を「叫喚」*4と表記している。子どもの発達研究において、守屋は「胎芽・胎児期」を研究対象の視野においている。それだけに出生時に発せられる声を「叫喚」として、その後の”泣き”と区別したのではなかろうか。

  • *3守屋光雄(1913-2004)。立命館大学で保育心理学の教鞭をとり、退官後、保育一元化施設、北須磨保育センター(神戸市)を設立する。守屋は「幼保一元」を否定し「保育一元」と称した。
  • *4叫喚=きょうかん。守屋光雄『保育学研究』(1985)に生後360日まで叫喚と定義された観察記録が記されている(本書84ページ)。生後4か月の観察記述で「不安そうな表情を浮かべ、ついには泣き出す」(同94ページ)と表記に乱れがある。

たとえば、5歳の子どもが泣けば、なぜ泣いているのかその理由をさぐる。子どもから泣く理由を聞き出すこともできる。5歳の子どもは言葉を語れるからだ。ここで一つ、考えるよりどころを提案したい。それは、言葉を語れるようになってからの涙と、言葉を獲得していない前とでは、涙の意味が異なるのではないか、ということだ。

赤ちゃんが泣けば、どうして泣いているのか、おとなは勝手に類推するしかない。おっぱいが欲しいのか、眠いのか、抱かれる相手が違うのか、……等々。

おとなが自身の言葉を駆使して考えている状況から説明すれば、赤ちゃんは「まだ言葉が使えないから」ということになる。しかし、理解のために言葉を必要としているのであれば、「赤ちゃんの泣き」こそ「言葉」ではないか、と考えてみたい。

さらに、「指さし」。機嫌をとるためにおとなは指さす方向に視線を送る。おもちゃをほうり投げる、砂を投げかける、諭すことはできないから、叱らない方法で対策を講じるしかないおとな。泣けばもちろん、泣いていなくても、おとなは自身のもつ言葉で解決の緒(いとぐち)を求める。

すなわち、言葉を獲得する以前、乳児の泣きやしぐさは「言葉なき”言葉”」であり、言葉の機能をもつ”泣き”であり”しぐさ”なのだ。

「泣く」の意味が変わるとき

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2歳になれば、コミュニケーションが成立する言葉を話すようになる。それまでも、「マンマ」と聞こえれば、食べたいものがあるかと伝わってくるものがある。「ママ」「パパ」と呼びかけてくれたときの喜びはひとしおだ。言葉を獲得する前の”泣き”は、マンマ・ママ・パパと同様だ。

這えばいつ立つようになるか待ちわびる。立って歩くようになれば一人前の人間になった、と思う。歩くようになれば、手をひいて散歩に出かけられる。握る手の愛らしいこと……。

いつから這った、いつから立った、いつから歩いた──そういう節目は記憶に残りやすいが、歩き始めるとその後に関心を払わない。

どういうことかというと、歩き始めたばかりの乳児は、足下に何があっても気にせず前進する。踏んだら痛いはずの積木やおもちゃを踏みつけて歩く。親や保育士は、危ないから踏まないよう片付ける。それが、いつしか踏みつけなくなる。

なぜ、踏まないようになるのか。それは、踏まないように避けるからだ。避けるために下を向き*5、障害物があればそれを避けて歩くということだ。──下を向いていないから、あるいは下を向いていても”障害”と認識しないから、それを踏みつけてきた。

  • *5歩行がより安定し、下を向けるようになったから避けるものが視野に入った、とするのが身体発育の順序として適正かもしれない。

認識して踏みつけるかどうか、それを判断する思考が働いている。つまり、「考える人間」になった。「人間は考える葦である」といったのはフランスの哲人パスカル(1623-1662)だ。保護が必要とされた動物から考える人間になった画期があるはずなのだ。言葉の獲得がいよいよ本格化する画期でもある。「泣く」ことの意味を分ける画期でもある。

ドイツの乳児はドイツ語の抑揚で泣く。
『チョムスキー言語学講義』ちくま学芸文庫 2017年 副題: 言語はいかにして進化したか著者: ノーム・チョムスキー著者: ロバート・C・バーウィック訳: 渡会圭子 7頁より  人は泣きながら生まれてくる。その泣き声は言語のめばえを知らせるものだ。ドイツの乳児はドイツ...