いつからおとな?──で、遊びを考える

こんにちは「遊びとは何か?」──これを問い始めると底なしの沼に足をとられる気がしてしまう。「遊び」は子どもだけでなく、おとなを対象にしても普通に使用する。幼児教育の現場では、遊びは、最も大切な意味をもつ。なぜ大切なのか?すると、「遊びとは何か?」の問いにもどってしまう。したがって、ここで示すことは、遊びを考える一つのアイデアにすぎない。(2018.11.26)


❖遊び/ゲーム、子ども/おとな、比較する
遊び ゲーム 要点
1 始め方 友達・場所・時間 ルールが必須 遊びは3つの要素で成立する
2 運用 遊び方は変更できる ルールに拘束される 遊びにはルール支配がない
3 終り方 宣言して終わる ルール通りに終わる 遊びの終わり方は、さまざま
子ども おとな 要点
4 成長 非合理 合理 つまずきの乗り越えかた
5 規範 道徳 自尊心を育てる
6 探究心 冒険 探検 あかちゃんは冒険家

ゲームはそれを行うルールを、参加する者全員が諒解していることを前提にして始められる。ルールを知らない者がいるときは、ルールの説明を受けるか、最初は見学してわかった時点で参加する方法がとられる。遊びの場合、ルールを「遊び方」とも言うが、遊び方を説明してから遊び始めることはほとんどない。

たとえば、じゃんけん。じゃんけんから始まる遊びは多いが、じゃんけんのしかたを説明している場面に出会うことはほとんどない。3歳や4歳で、十分わかっていなくても、まねをしていつのまにか覚える。

かくれんぼをするにしても、じょうずな子と混じっておぼえる。「遊び方(=ルール)」は遊びながらおぼえる。遊ぶ仲間=友達、かくれんぼをする場所、そして、遊んでいられる時間が保障されたとき、遊びは成立する。

ゲームで勝敗を競うとき、ルールは公平でなければならない。ルール破りのずるい人間が混じるとゲームは続かない。しかし、遊びの場合、鬼ごっこで幼い子どもは捕まえられても鬼にならなくてすむ。鬼が10を数えるあいだに逃げる場合、10を数える速さにきまりはない。速く数えすぎるとみんなから文句をいわれてやりなおすだけだ。

スポーツもルールによって行うが、スポーツが求めているのは「記録」だろう。記録は他者と比較して意味があるので、ルールは厳格に適用される。(註1) ゲームの勝敗について、スポーツのような記録が求められれば、ルールをしっかり守る必要がある。他方、勝負にこだわることがなければ「遊び」に近くなる。

勝負が決まったとき、ゲームは終了する。遊びも、隠れているみんなが捕まってしまったら終わりだ。しかし、長く遊んでいると、塾に行くからとか、暗くなったからとか、お母さんが呼びに来たとか、仲間が抜けて仲間が減り、誰かが「やめよう~」と言い出して終わることもある。途中で喧嘩して、誰かが泣いて終わることもある。

はないちもんめ

永田照夫 『光と水と土の保育』 より

ここまでは、小学生を含む子どもの遊び集団を想定して描いてみた。しかし、保育所など5歳(6歳)を年長とする子どもの集団には、上記のような機能はない。保育士が「おとな」としてではなく、擬似的に小学生的な年長者ぶりを演じることになる。幼児20人に対して年長者役の保育士が1人か2人という人数のアンバランスをどのようにカバーするかは、子どもの発達や遊びに対する理解が結果を出すことになるだろう。

保育士は、担当する子どもに何をさせるにしても、子ども自身の意思(主体性)でとりくみがなされるよう、子どもの心が熟す時間的配慮を行っている。遊びの「かたち」だけを真似るとき、遊びは「ゲーム」と化す。そうした危うさを内包するむずかしい課題であることを指摘しておこう。

「九歳の旅立ち」を命名する
子どもの発達は階段状に進む。ゆっくり徐々にではなく、ある日突然、きのうまで出来なかったことが、ふと出来るような気がして実現する。「こども」が「おとな」になるときも、きっとそうだ。この変化に追いつけないのは、むしろ「おとな」だろう。(2017.4.15) ❖「こども」と「おとな」...
❖「つまずき」でわける子どもとおとなの境

いつまで子どもで、いつからおとな? 中学生や高校生は子どもかおとなか。こんな問いかけは無意味だろうか。からだはすっかりおとなでも、年老いても、心のどこかに「子どもがいる」と思う人は少なくないだろう。子どもかおとなか、境界のような線引きは、無意味かもしれない。

それでも、厳然と、「子ども/おとな」という言葉はつかわれる。実態としてもその存在は認められる。保育という職務で「子ども観」を問われるとき、同時に意識するのは、子どもが置かれている環境(社会的・自然的)であり、歴史的背景であり、子どもの将来=おとなの世界であろう。

そこで、私は提案したい。子どもとおとなをどこで区切って見分けるかを──。それは「つまずき」。人間はその成長過程で必ず失敗する。他者に迷惑をかける。そうした「つまずき」を重ね、つまずくことで大きくなる。

けんか

『光と水と土の保育』(上記)

人間は、いつから「つまずく」か。あかちゃんが、1歳児が、こぼしまくって食べる、その様子を失敗とみる人はいない。歩き始めた乳児がころんでも、それは、つまずきでない。2歳児、3歳児が、ものをとりあい、泣かせたり、かみついたりする。よくないことであっても、相手の気持ちをどうやってわからせようかと保育士は悩む。保育士のつまずきかもしれないが、子どものつまずきではない。4歳児、5歳児、友達と遊んでいて思うようにならず喧嘩になった。喧嘩をみていた子どもたちも考える、どうすればよいかと。つまり、就学前幼児のそれらは「つまずき」ではない。問題解決の方途を彼らに求められない。

❖「非合理」を受容する

では、「いつから」問題解決に立ち向かわせればよいか。その「いつから」に符号するときを「おとな」の起点と考えてみる。嫌なことは避けたい、こわいことはしたくない。そういう思いから合理的選択や判断を下すようになる。

おとなに向かう成長とは、非合理から合理に向かうことではないか。おとなになっても、子ども心を持つといわれる人は、おとなである証の合理のなかにあっても、非合理な部分を併せ持つことではないか。おとなとしての合理を、非合理のなかで生きている子どもに押しつけてはならない──と、保育士の多くが自覚し悩み格闘する。非合理を受容することは、親子の関係でもいえるが、忍耐のいることである。忍耐を支えているのは、愛と理解であろう。

ここで一つの解が得られる。少なくとも就学前幼児のあいだは、非合理を十分に経験させることが大切であり、それは即ち「遊び」の重要性を意味する。ルールに支配されるゲームは、合理の成果物であり、遊びとゲームは相反する。

❖決まりごと(法)ではなく自尊心(道徳)を

非合理と合理、遊びとゲームの違いを、「道徳」と「法」で考えてみよう。「法」は規則、決まりと読み替えられる。「してはいけません」あるいは「しつけ」の場面でつかわれる言葉が隣接する。「道徳」は決まりごとではなく自発的な行為に期待されるものだが、「してはいけません」や「しつけ」の場面でも道徳的な導きをうながすこともある。(参考図書、渡辺洋三『法というものの考え方』1959年)

合理的判断、価値観を幼児にわからせようとしても通じない。したがって、決まりごととしてしつけたり教えこもうとする。押しつけるのでなく気づかせる工夫をしたいと考え、時間的配慮を行い(待つということ)、自尊心を育てていくのがよいと考える保育士は多い。イソップ寓話にある「北風と太陽」のごとく。非合理を十分に経験させるには「遊び」が適しているように、自尊心を育て規範のもとになる道徳を身につけるに適しているのも「遊び」だ。将来のつまずきに備えて自尊心をしっかり育てておきたい。

❖あかちゃんは”冒険家”として生まれた

最後に、曖昧、適当につかわれている「冒険」と「探検」の違いを明らかにして、子どもの将来に夢と希望をもちたい。

  • 新明解国語辞典(第三版)によると──
    • 冒険…危険を承知・(不成功を覚悟の上)で行うこと。
    • 探検(探険とも書く)…危険を冒して、未知の地域に踏み込み、実地に調べてみること。

「南極観測」は「南極探検」と表記することを嫌った政府による呼称であり、危険を冒してはならないとした(本多勝一『冒険と日本人』)。しかし、人類未到の地だった南極大陸では、1911年、アムンセン(ノルウェー)が南極点に到達し、これはまさに冒険だった。大陸の発見、極地点への到達は、”大陸の探検”へ道を拓(ひら)いた。ジェンナーによる種痘の発見は地球上から天然痘を消滅させた。これを境に子どもは「死なない存在」となり、子どもの未来を考えるようになった。社会の関心事に「子ども」が加わった。冒険から→探検へと、人類の歴史に学ぶことは多い。

あかちゃんが生まれ出たその瞬間は、あかちゃんにとって”冒険”だった。冒険は多くの人びとに支えられて初めて成立する。それがなければ「死」が待っていることもある。そう、わたしたちは「冒険家」として生まれた。あかちゃんの冒険は、誕生を待ち望む愛で見守られ抱き上げられた。

冒険家として生まれたことは「無限の可能性」を意味する。そして、単刀直入にいえば、子育てとは無限だった可能性を摘み取っていくことだ。皮肉な言い方をして申し訳ないが、わたしたち(おとな)は子どもとかかわるなかで無限のままにしておけない。子どもの可能性を選択的にみてしまう。合理的選択は、非合理の世界にいる子どもをそのままにはしておけないのだ。

そこで「遊び」が登場する。幼少期にしっかり十分に遊ぶことが、冒険家から探検家へと道を拓(ひら)く。

❖結論…子どもとおとなの境界は……

では、「つまずき」を体験させ、自分で問題解決にあたらせる、つまり「おとな」はいつからだろう。私は、10歳を超えてからで、小学5年生くらいを一つの目安に考えている。つまずきに耐えられる自尊心をそれまでに十分育てておく。たっぷり遊ばせておく。あくまでイメージ的な捉え方で、子どもとおとなの中間、移行期を敢えて置かない。「おとなになったばかりの子ども」または思春期・青年期は、必要に応じて、親たち「おとな」が手助けすればよい。それが「おとな」の役割と考える。自尊心を支えに主体性のある人間へ。このように考えることで「遊び」の必要性、重要性が伝わればと願っている。

註1……ある日のテレビでインタビューに応えて、フィギュアスケート選手の羽生結弦が、金メダル獲得を有力視されているとき、「記録には関心ない(金メダルをとるの意)」と言っていた。そのとき、彼は、スポーツではなく遊びの境地にいるのでは?と思った。スポーツ世界の覇者は上を狙うとき、自分を乗り越えることが目標となったとき、「遊び」にもどるのだろうかと思った。

(終) 山田利行

  • 改訂履歴
    • 2018.11.26 一部改稿
    • 2017.8.24 大幅に改稿した
    • 2016.4.27 初稿
柴田敏隆 / 少年と自然のふれあい
少年と自然のふれあい 一本の棒が彼らの夢をふくらませた 柴田敏隆 引用者註 以下の論考は、上記をタイトルとする全文です。 出典は、平凡社発行誌『野生からの声〈アニマ〉』1973年9月号の巻頭言相当「今月の主張」です。今(2018年11月)より45年前の記事に...
子ども期の再生(ルネサンス)
── "The Renaissance of Childhood" Project かつて、誕生しても子どもは疫病にかかるなどして必ずしも生きながらえるとは限らなかった。やがて、医療や衛生思想が普及しこれを克服してきた。他方、宗教世界から解放され、科学や産業の発達で子どもに...