守屋光雄の「保育一元化の理念」 1979年

こんにちは「保育の一元化」や、領域で分ける保育でなく「遊び」で統合する保育を、守屋光雄は、研究者である一方、施設長として、市の認可を得た上で実際に施設型保育でその実践を行った。1970年代の3年間、わたしは保育一元化施設・北須磨保育センターで働く機会を得た。(2015.12.27)


守屋光雄(1979年)『遊びの保育』p75-78. 新読書社
「第5章 保育一元化とカリキュラム」より「第1節 保育一元化の理念」の全文
(2015.12.27転記)

新聞紙合戦

左端に著者の守屋光雄。
本書口絵写真より。 撮影者、永田照夫(神戸新聞社)

私は、かねてから、未来に生きる子どもたちの人格形成の目標を、自主性、創造性と協力、協働におき、この目標を達成するために、歴史的社会的存在として捉えられた子どもの早期からの創造的教育計画による差別や疎外のない仲間づくり教育-集団主義教育-の必要性を力説し、教育の原理としては、排他・選別・競争でなく、協力・平等・平和を、発達を規定する要因としては、歴史的社会的環境(教育)を、発達原理としては、成熟よりも、学習を、発達理論としては、大脳における客観的現実の能動的認識を重視する反映理論を主張してきた。

又、私は、さきに、(1969年)神戸の北須磨団地内において、保育の一元化を目指す実践に乗り出した。(北須磨保育センターの創設)

私の提唱する保育一元化の志向するところは、既存の幼稚園と保育園の基本的性格を止揚して、両者の関係を変革し、新しい、保育体制を創造することにある。従って、保育一元化とは、決して、既成の幼保の体制を前提として、保育所を幼稚園化することでもなければ、幼稚園を保育園化することでもなく、幼保の施設を隣接または共用することでもなく、既存の幼稚園、保育所という固定観念を棄却して、右に述べた、児童観、発達観、教育原理に立ち、子どもの発達保障と保育者の研修権と、母親の労働権(育児権)を三立させる保育体制を創造することである。

そのためには、さしずめ、日本国憲法、教育基本法、児童福祉法の理念にも違反する、幼保二元化にみられる、子ども、親、保育者の差別をなくし、幼保を制度的にも一元化することも考えられるが、それよりも、保育の理念、内容、方法を根本的に洗いなおすことが必要である。

わが国の教育の現状は、人間を人間として捉えず、財界、産業界に役立つ商品(マンパワー)と考え、その商品を速成するための早期能力開発教育がおしすすめられている。

教育とは、教師が上から「与えるもの」で、子どもは、「受けるもの」と考えられがちである。この「与-受」の関係では、どうしても、教師は、既成のカリキュラムによって、知識を一斉に、一方交通的に与えるし、子どもは、機械的、受動的に受けることになる。ここでは、反復練習、機械的記憶による学習が強行され、子ども自からが、能動的、積極的に、思考し、創造することは期待されない。

その上、わが国の集団教育では、保育所、幼稚園から大学に至るまで、マス・プロ教育であり、一人の教師の受持人数が極めて多い。そこでは子どもの教育より管理が優先する。管理しやすい教育としては、規格カリキュラムによる、規格商品を製造するための、一斉画一教育が好都合である。周知の通り、小・中学校では、生徒と外観は同一の解説つきの教師用教科書が重宝がられ、幼稚園、保育所においてさえ、幼稚園教育要領、保育所保育指針準拠と銘うった保育者用テキストが氾濫している。個性の尊重とか、教育の多様化といっても、所詮、管理に不便ということで、選別、差別、疎外の教育が助長されるのである。

与える教育、管理優先の教育からは、創造的思考は培われない。子どもも動物と違った人間としての歴史的社会的存在である限り、考える人間であらねばならない。創造的思考を失ったものは、人間ではない。人間が万物の霊長であり、地上の王者であり、社会を変改し、宇宙を改発できるのも、この創造的思考と協働、協力によるのである。

人間は、管理され、強制されない時、はじめて、自主的に思考し、行動しうるのである。誰からも管理されず、何ものにも強制されない、真に能動的、自発的活動こそ、人間を人間として成長発達せしめる創造的思考を育てるものである。そして、こうした自己活動の本質が遊びなのである。遊びこそ、創造的思考を発達さす母胎になるのである。このことに注目すれば、「遊びは、子どもの身体的発達だけに有効であり、精神的発達にはあまり役立たない」従って、「幼児には遊びは大切かも知れないが、学童や青少年は、遊んでばかりいては、かしこくならない」というたぐいの議論は正しくない。狭義の遊びを優先していては、学業成績が低下するというのは、既存の教育体制──受験、能力開発(マンパワー)、管理──が間違っているのであって、狭義の課業学習においてさえ、自発性に基く学習でなくてはならないのである。従って、遊びと学習を対立概念として捉えるのでなく、遊びと学習を止揚、統合すべきである。

従って、遊びの本質である自発的活動は、幼児期だけの占有物ではなく、人間一生の学習にも必要であり、その意味で、遊びは学習であり、学習は遊びでもあるのである。

北須磨保育センターにおける保育理念は先に述べた通りであり、そこで行われている保育内容には、いくつかの特徴があるが、その基本となるものは、自発的、創造的、集団的活動を基盤とする「遊びの保育」である。遊びを基盤とする生活実践の中での自主的、集団的、自己形成を原点として、「与える教育」を止揚した新しい保育体制を創造しなければならない。


(了)