海を子どもたちの遊び場に

こんにちはJR須磨駅すぐ前の砂浜、30年以上”むかし”、今と比べて砂浜が狭かった。その後、養浜して砂浜を拡げた。景色は砂浜だが、以前とはまったく違う。粒子が粗くビーチに入り込む砂は痛い。昔は心地よかった。子どもは砂山をつくって遊ぶ。その感触が子どもを育ててくれる。かつて子どもを夢中にさせた砂は、駅から西へしばらく歩き小さな川を越えた所に広がっている。(2016.7.2)


以下、『月刊どの子も伸びる』1981年10月号所収。


まあ、見といてください。5分もたてば必ずくつをぬらす子がでてきますから。子どもたちはね、海に来るとあんなふうに最初はちょうどなぎさ線に平行して横一列にならんだかっこうになるんです。おとなだと視野180度とでもいいましょうか、海にきた最初の”仕事”は海が眼に飛びこんでくるんですね。海は広いな、なんです。これは子どもでも同じかもしれません。

渚に並ぶ子どもたち

子どもとおとなでそのつぎにくるものがちがうんです。おとなはやっぱり景色をながめるというふうなんです。ただ焦点が船だとか水鳥だとか水遊びしている人たちにとか何かにしぼられ、また移っていくんですね。ところが子どもは海のはた、つまりなぎさ線まで近寄ってみたい衝動にかられる。子ども同士ならそれこそ一目散というところでしょうけど、親や私たちに引率されてということになるとおとなの顔色をうかがうんです。行ってもいい、そう感じるとおとなのことなんか意識にない。

くつははいたまま。くつしたもはいたまま。波が寄せてきてもまだ、とてもじゃないがぬれるわけのないところにつったっている。それでも波が寄せてくれば一応あとずさりする。波がくるわけがない。それじゃおもしろくないから前進する。まだまだ波はこない。もっと前進。ウワァッと大きな歓声をあげてあとずさりする。冒険はだんだんと拡大していく。前進、退却、前進、退却。海は広い、子どもの歓声は拡散し、ただはしゃいでいるだけにしか見えないが、じつはありったけの声をだしている。町中で、家でこんな大きな声をだすことはないでしょう。
渚に並ぶ子どもたち

こんなことをくりかえしていたら5分もすればかならずくつをぬらす子、正確にいえばくつしたをぬらす子がでてくるわけです。まあ見といてください。そりゃね、複数の子どもたちがおれば一度にみんながぬれることはない。前進していくいきおいも退却するタイミングもまさに個性があるわけですから。そのだれかがまずぬらす。私なんか、ようこうやって子どもたちを海につれてくるでしょう。子どもは私に「ぬれた」といってくる。「ぬれたん、あっそう」とこたえるだけなんです。さあ、ひとりぬれてこっちにきよりますよ。
「ぬれたあ」
「ぬれたん」
「ぬれてん」
「あっそう」
「ぬれた」
「……」
「ぬいでもええ」
「すきにしたらええやん」
「ぬごうと」
「くつしたもぬごうと」
「見といてな」
「しらんでえ」
行ってしもうたけど、もう2人め、3人めとくつをぬらしはじめるんですわ。そうしたらね、さっきの子がくつやらくつしたをぬいだもんだから、なんぼでも海の中にはいっていけるでしょう。くつがぬれてウジウジしている連中はいっぺんにまねをするんです。つまり、じきにみんながくつをぬぎ、くつしたをぬぎして、どこにおいたら波に流されないか考えてふたたび海へもどっていく。もうこうなったらどんどん海の中へはいっていくんですね。このへんを少し説明しましょうか。

ぬれそうになる子どもたち

今はぬらしてからくつをぬいだんですが、はじめからくつをぬいで海にはいるとするとね、最初足に波がかかるとヒッとするんですよ。そのあとで「つめたい」と声があがる。つまり最初は言葉にならないんですが、ヒッとか、ウワァとかなんです。極端にいえばそのような感動を十分に味わったあとで「つめたい」などと表現するんです。ヒッの方が「つめたい」より”つめたい”んですね。ここらあたりがかんじんなところで、おとなは子どもに何がおもしろいかなどとたずねるのですが、ほんとうにおもしろい部分は表現しにくいんですね。

「つめたい」と表現してしまうと、もうつめたくない。だからもう一度今のつめたさを味わおうと海へ少しはいっていくんです。くるぶしあたりに波がくる。ヒッとする。さらに前へ。すねに、ひざに、エスカレートしてくる。ひざの上を波がこえるようになると、両方の手が半ズボンのすそをつかんでひっぱりあげている。足はつまさきだち。ズボンをぬらすまいとするが、ズボンがぬれるのはもう時間の問題。

視線はより遠くに

スボンがぬれるとこの”遊び”はおしまい。はじめになぎさ線にならび、そしてズボンをぬらすまでのこの”遊び”をかならずといってよいほどにはじめて海へ来た子どもはするんです。この”遊び”に寄らない子どもはみんなのするのを見ているか、砂浜にへたって何をつくるというわけでもなくただ砂いじりしているだけのことが多いんです。はたから見ておればたいくつそうにも見えます。

ズボンをぬらしてしまうまでの時間がだいたい15分。いいきってしまう自信はないんですがそのぐらいです。ところがある学童保育の子どもたちをつれてきたときは40分かかりました。これは去年のことで今年(注・1981年)同じことをしたら20分でした。なぎさ線からズボンをぬらすところまでの距離は3メートルほどです。常に「つめたい」という新鮮な感覚を求めて海に向かって前進していく行為にどうして40分もかかるんでしょう。

小さい子どもはブランコがすきですね。ぶうらんこ、ぶうらんこと毎日毎日ブランコで遊びますね。そして、あのくりかえしこそ子どもの成長に不可欠だということはおとなのなっとくするところなんですね。海ですと波のくりかえし打ち寄せるさまがブランコのそれと似ているように思うんです。だから子どももあきずに波と遊ぶ。それが15分であっても40分であっても、いわゆる個人差のうちだといってしまえば特に問題はないんですが、割り切れないものがやっぱりのこるんですね。

ズボンをぬらしてしまうと、とにかくさっきくつをぬいだところまでもどってくるんです。ふたたび視野が広くなり波をながめながら、さあ次は何をして遊ぼうということになる。これまではみんなが同じことをして遊んでいたのに、これをきっかけとしてそれぞれが思い思いのことをしはじめるんです。砂をほる、砂をつむ、貝をみつめる……。死んでくさったさかなをひろってきて、指先でつまみあげて得意になる子。海中に突き出した突堤でカニをとる子。ウワァー波がきたあ、と歓声をあげながらダムづくりに夢中になる子。一人だけ、二人で三人で、あるいは四、五人でここぞと思う場所を確保して遊ぶようになるんです。こうなったら”もう帰ろうか”と声をかけてもちょっとやそっとで動かないんです。

砂で遊ぶ子ども

子どもに遊び場がないっていいますけど、ここでしたら駅の裏から50メートルは砂浜がありますよね。ずいぶんせまい海岸なんですけど、これを子どもの遊び場と考えたらずいぶんと広いと思いませんか。東西には延々とさあ何キロあるんでしょうね。ブランコやすべり台はもちろんのこと植木も藤棚も、つまり公園らしいものは何もないけど、やっぱりこの砂浜自体がすばらしいと思うんです。

たとえば、あそこで穴をほっとる子がおるでしょう。砂でなかったらスコップでもいるところでしょう。けど、けっこう深くほっているみたいですね。ずっと腰をまげとるでしょう。今の子どもの生活の中であんな姿勢を長時間、しかもみずから好んでするなんて考えられへんのとちかうやろか。本人になってみんとわからへんのやけど、今あの子の眼はほっている手の先にあるんとちがうかな。つまりおとなはばくぜんと、砂ほりなんかしてやっぱり子どもやな、ぐらいにしかみてないが子どもはすごい集中力やねんね。少なくなった指先や手の労働ともいえると思う。

砂を掘る子ども

学童保育所のある子どもはいろいろなものを船とみたてて突堤より”出港”させた。板ぎれ、漁師が捨てたんだろう網につけるウキ、ビタミン入りドリンクの空ビン、ジュースの空カン、だいこんの切れはし。一見きたならしいが砂浜にはありとあらゆるゴミが集められているんです。

私がアイデアをだして10人ぐらいの子どもたちと1メートルほどの高さの砂山をつくったことがありました。その横っ腹に”顔”をつくったんです。眼はムラサキイガイという貝がらをつかい、鼻はパンクしたゴムボールです。口は紙コップをいれるんですが、底を破っておくと”飲む口”になるんです。つまり水をいれると砂に水がすいこまれてまるで水をのんだかのように思えるんです。髪の毛は海草です。軍手が落ちていたのでこれに砂をつめてさわってみるとほんものの手みたいなんです。気もちがわるいですよ。わりばしでうでをつくり砂山につきさしました。ひょっとしたらズボンが落ちとるかもと思ってさがしたら、ねずみ色の作業ズボンが落ちとったんです。そしたら、子どもが自分のぞうりをはかせ、帽子をかぶらせたんです。子どもたちは空カンに海水をくんでは何度も”飲む口”に注ぎ込んでいました。

砂山で顔をつくる

子どもばかりかおとなもけっこう海には魅力を感じる人が多い。通りがかったおとなたちが子どものしていることに笑顔を見せ、声をかけてくる。子どもは子どもでつりをしている人に”収穫物”をねだったりするんですね。見知らぬ人同士が親しく声をかけあうなんて町中の公園では考えられないことでしょう。むしろ警戒するぐらいですからね。もちろん海岸も決して安全というわけではないでしょうけど、何といっても多くの人の出会う場であることは確かです。

何人かのおとなに聞いたんです。子どものとき須磨海岸へ行きましたかと。たとえばこんな話があるんです。自分が年長者で近所の子らと何人かで海へ行こうと決める。行きは電車でいったのですが、途中でアイスクリームなんかほしくなる。けっきょく帰りの電車賃がなくなり歩いて帰ることがよくあったと。

海は遠くの人までもよびあつめる魅力をもってるんですね。その海が汚れてきている。埋立てがどんどんすすむ。この海岸では養浜事業というのが行なわれておって、ここにもってくる”砂”がまた妙なんです。水族館の裏あたりがすでにその砂なんですが、ゾウリに砂がはいると足が痛いんです。くつの中にはいればガマンできないんです。はだしであるくとザラザラし、また足が砂の中にめりこんでいくんです。日光浴でもしようと寝ころべば背中に砂がくいこんでくる。砂浜という景観だけを養浜したんですね。こんなところで子どもを遊ばせたら砂浜をはじめとする海のイメージをかえてしまうでしょうね。おそろしいことだと私は思います。

時間を忘れて遊ぶ

海の魅力はその素朴さにあると思うんです。町中と比べものにならない広がりを感じさせてくれます。波のくりかえしくりかえし寄せるあの音は子どももおとなも共通に感じる快よいリズムだと思うんです。だからこそ、子どもはその直線的な行動性ゆえに最初波の中にはいって遊ぶんだと思うんです。海に来た実感は子どもにとって直接水にふれるしかないと思うんです。海に来た実感を得た子どもはもっとおもしろい、もっと工夫のできる世界を発見し砂浜で長時間たわむれることができるということではないでしょうか。つまり、15分の40分のという波の中でのナゾは、実感を得るまでの時間であり、あとにひかえている行動こそが海のほんとうの良さを知らせるものといえると思うんです。ただ波で遊ぶ時間を”通過”しなくてはならないという状況があるということだと思うんです。

※このレポートは神戸市須磨区高倉台団地の”もぐら・たんけんたい”(約20人)の子どもたちをモデルにし、海岸は国鉄須磨駅裏に広がる一帯をさしています。

■『月刊どの子も伸びる』1981年10月号所収
■執筆者: 山田利行