「なにもしない」ことの意味

ねころぶ授業

2013年4月24日の授業記録。

そもそも「なにもしない」ことがありうるか?という禅問答のような問いかけだが、先週4月24日の”寝転ぶ”授業はそのつもりだった。幼児期を含めて小中高およそ二十歳頃までは、子育てとか教育というもので何かしら課題を与えられ目標を持たせられ正答があるかのようにすりこまれてきた。だから、それらから距離をおくために「なにもしない」試みをしてみたいとかねがね思っていて、ささやかに実行してみた。「なにもしない授業」は形容矛盾だけれども、まあ毎年試行錯誤することにしよう。

生まれたばかりの乳児と母親は互いに教え合う関係にあるのではないかと思う。抱かれ抱く関係、おっぱいをもらい与える関係、見つめられ見つめる関係。このことの意味と、寝転ぶ授業と、なにもしないこと──の関連性はつけてみたいと思う。いつか、ぜひ。

「なにもしない」ことは〈なにもしない〉ことなのか? 課題を何か与えられそれに仮に正答があるとすればその正答に近づくことや正答を得ることが目標となり、目標に近づくか達成することでそれは〈なにもしない〉ですむ状況を作り出す。前者の「なにもしない」ことは当初より目標も正答も存在しない。しかし…… 実際には「なにもしない」状況が存在するはずもないことから、「なにもしない」は目標設定しにくい課題や解けない未開拓分野に取り組むということではないか。「なにもしない」は〈なにもしない〉より深遠なのかもしれない。面倒な「なにもしない」より即物的な〈なにかする〉を選択していると考えればどうだろう。

──そして、乳児と母親は面倒な「なにもしない」状況下にいる。乳幼児とつきあう(保育士をめざす)のであれば、大人になってしまったわたしたちは、染みついた〈なにかする〉を取り去り、「なにもしない」ことの意味に向き合う必要があるのではないか? と私は問いたい。

神戸こども総合専門学院 山田 利行 教科「自然と外遊び」を担当 2013.5.1記す