《3つの体験》& ハートスケール

 我が子には、たくさんの体験をさせたいと思う。小学生も高学年であれば、どこかに出かけたり、教育施設の体験プログラムなどに参加させてみようかと思う。幼児では、親が連れ出して一緒に遊んでみようと思う。「体験」はさまざまな場面で多用されるが、本稿では、体験を《3つ》に定義して提案する。

3つの体験 備考
1)感動する体験 内言 / 初めの1回のみ / 自分ひとりでは実現しない
2)繰り返す体験 外言 / 自分ひとりで可能
子どもが今日共同のなかでなし得ることは、
明日には自分ひとりでなし得る(ヴィゴツキー)
3)食べる体験 生活体験 / すべての体験

言葉にならないから、感動する

 映画をみて「よかったあ~」と感動したとき、それ以上の言葉にならないものだ。一緒にみている仲間がいるとき、場内が明るくなると、言葉を交わすのが億劫になる。
 読書感想文の課題では、感動したことを書けばよいかなと思ったりする。しかし、感動したときはやはり「よかったあ~」と思うばかりで、書き言葉はなかなかでてこないものだ。
 自身の体験を超えるから感動するわけだ。過去の体験を説明する言葉は出てくるが、初めての体験を言葉で説明するのは容易でない。だから、感動するのだ。つまり、言葉にならないから感動するともいえる。
 映画をみたあとの帰り道、本を読んでしばらく時間をおけば、心の整理ができてくると言葉が出てくるだろう。内にひそめた言葉=「内言」が感動とともに発生し、やがて「外言」として、自身で捉えられるようになる。

 子どもの場合を考えてみよう。ぶらんこはいつから乗れるようになるのだろう。

 早い子どもは、2歳で乗れるようになる。しかし、初めは自分で乗るのではない。乗せてもらうのだ。「乗る」が先で「降りる」が後だ。
 初めて乗ったそのとき、子どもは感動するのだろうか。
 乗りたいと思い、近くのおとなに頼み、乗せてもらう。うれしいという気持ちがわくかもしれないし、うれしい気持ちはなく、ぶらんこ座面の感触や揺れる感触をさぐるほうが先行するかもしれない。果たして「感動」という言葉対応はふさわしいのだろうか。

 あかちゃんがお母さんのおなかから出たその瞬間、あかちゃん自身にとって「感動」だろうか。「体験」といえるのだろうか。感動や体験といえるものはいつから始まるのだろう。ぶらんこに初めて乗ったそのときを「体験」としてよいと思うし、感動またはそれに類するものが生じるのではと思う。

繰り返す体験の始まり

 一度でも「乗せてもらう」と、それからはぶらんこを目にしたとき、再び乗りたいとせがむようになる。これは、「繰り返す体験」を意味する。つまり、繰り返す前の初回があるわけだ。したがって、2歳児の感動とはどういうものかはわからないが、「感動する体験」をしていることになる。

 幼児を含めて子どもを海辺に連れて行くと、渚に近づく。渚まで近づいて、ゆるされれば、足をつけたり、水をさわる。やがて「冷たい!」などの声が聞こえてくる。よく観察してほしい。足をつけたその瞬間、おとなでも同様だが、冷たいと発声するより前、言葉にならない感触を感じるはずだ。そのあとに、既知の言葉「冷たい!」が出てくる。冷たいが適切でないと思えば「気持ちいい」と言ったり、人それぞれになるだろう。つまり、初回は、言葉にならない。内言が発生し、外言を生じさせる。波が寄せては引く繰り返しを行うので、自身が動かずとも「繰り返す体験」がその場で起きる。「繰り返す体験」を経験すると新たな”ふれあい”を求めて前進することになる。

海を子どもたちの遊び場に
JR須磨駅すぐ前の砂浜、30年以上"むかし"、今と比べて砂浜が狭かった。その後、養浜して砂浜を拡げた。景色は砂浜だが、以前とはまったく違う。粒子が粗くビーチに入り込む砂は痛い。昔は心地よかった。子どもは砂山をつくって遊ぶ。その感触が子どもを育ててくれる。かつて子どもを夢中にさせた...

 ここで新たな提案をする。

 人は《「感動」という名のものさし》を持っている。ものさしだから計ることができる。そのものさしは人によって皆違う。

 ものさしというからには、ものさしのかたちをイメージしてかまわないが、「かたち」はない。想像上のものさしだ。計る道具にたとえているが目盛りはない。何を計るのか? 「気持ち」を計るものさしだ。

 人は、育ってきた環境、さまざまな体験・学習をとおして感性や価値観を持つようになる。好きなこと、得意なことは前向きに取り組もうとする。その前向きになれるものさしを持っていると考える。ものさしを「ハートスケール」と名づけてみた。

ぶらんこに乗りたい、と思うものさし

初めのうち、小さく細いものさし。何回も乗っているうち「繰り返す体験」によって太く丈夫になる。

 大きくゆすられると、「こわい、やめて」と言ったりする。乗り続けて、ものさしをさらに太くして丈夫にする。丈夫なものさしを自覚するようになると、ぶらんこを大きくゆすってほしくなる。すると、ものさしはこうなる。太い部分は丈夫になった部分で、両端は経験がまだ浅いので細いというイメージ。

 ぶらんこに乗るたび、さらに丈夫になる。「繰り返す体験」の意味がここにある。ハートスケールの原型ともいうべきイメージになる。

ぶらんこを降りる

 ところで、ぶらんこから離れたい、自分で降りたいと思うようになる。だっこではなく、自分で降りたい。「おりる」と自己主張するようになる。ぶらんこを、ひとりで降りるときがいつか必ず来る。幼い子どもの心に、やってみようという気持ちが芽生えてくる。「繰り返す体験」でハートスケールが成長し、つまり、内言が充実してきて外言が生じ「降りる」と言い、降りる動作に結びつく。そして、初めてひとりで降りられたとき「感動する体験」となる。

 こうした行動に出会うと、ぶらんこに乗ったばかりの幼児は、すぐに降りようとする。こんどは降りる体験を繰り返す。ハートスケールが、イメージではあるが、成長していく。

 渚で足をぬらし、さらに前進するのも同じ理由による。

再び、感動する体験

 左図で緑色は「繰り返す体験」で出来るものさしだ。ぶらんこを何回も繰り返し乗ることで出来るものさしだ。赤色は自分ひとりで降りることを意味する。

 内言が充実し臨界に達すると、赤い部分はまだ本人には見えないが、本人の意思と行為で赤い部分に達することを予言している。結果、到達した瞬間、「感動する体験」となる。

 イメージだが、ハートスケールから赤色に伸びてゆく細いものさし。赤色に達したその瞬間(=感動)赤い部分は消える。ものさしに取り込まれる。細いものさしは、「繰り返す体験」で太くなり、確かなものさしに成長する。

ヴィゴツキーの理論「発達の最近接領域」

 ぶらんこから自分ひとりで降りられるようになるには、腰を少しすべらせるなどして足が地面にとどけばよい。その背景には、心の準備がともなっている必要がある。ヴィゴツキーは次のようにいう。

内面的発達過程を子どもに生ぜしめ、呼び起こし、運動させる

 先程までは出来そうになかったことが、機が熟すというか、ふと出来る気がして、試そう、やってみる!──これが「発達の最近接領域」理論。

NG例:内面(内言)が充実することで、誰にも「感動する体験」は実現する。保育園等で、多くが出来、出来ない子が一人とする。皆で励まして出来るようにすることはNGだ。「感動する体験」を実現するには、日を改めるなどして「待つ」ことが肝要だ。目的の行為が大事なのでなく「発達の最近接領域」への到達実現こそが大事なのだ。このことが発達保障になる。要は、子ども一人一人、自力で達成したと思わせる設定が必要だ。

生まれたばかりのあかちゃんは「ものさし」を持つか?

 生まれ出たそのとき、あかちゃん自ら感動するか? 感動するには内言が生じそれの充実が必要なので否定される。そこで、左図のイメージ「あわつぶ」を描いてみた。 俗な表現になるが「あわつぶ」は見守る親たちの「愛」の成果物としてもよい。

 「あわつぶ」が集まって「ハートスケール」の原型となる。心細いイメージで恐縮だが、「愛」が集まって「ハートスケール」が出来るといえば親たちの実感を伴うのではないか。Aは1歳3か月頃と想定している。もちろん個人差はあると思われるが、定かでない。

「3本ストロー法」……1歳3か月頃の意味

 模様のない白いストローを3本用意する。ABCとしよう。1歳3か月頃の乳児にAを差し出してみる「はい、どうぞ!」と。Aを左右どちらかの手で取ろうとする。次にBを差し出す。空いている手で取りにくる。両方の手に1本ずつのストローがつかまれている。さて、Cを差し出すと、どうなるか。

 1歳3か月を満たしていない乳児は、どちらか片方の握っている手を開放してストローを落下させ、その手でつかみにくる。
 1歳3か月に達している場合、落下させるのでなくストローを手放さずにCを3本目として取りに来る。

 話を単純化するため「1歳3か月」としたが、個人差は考慮されなければならない。0歳10か月の乳児の場合、ストローを取りにくるのでなく、声を発して問うた私の顔を見るだけだった。2歳を過ぎれば関心をもたず行為は完結しないと思われる。

 同一の乳児が、あるときまで落下させていたが、あるときから落下させることなく3本目も自分のものにしようとする。これは何を意味するか。手にしている物体に意識が及び、これを持ったままで3本目を受け取ろうとする。
 あかちゃんが手ににぎっている物を親が危ないと思ったりして無理に取り上げると泣くことがある。つまり、握っている物に対して意識があることは確かだ。にもかかわらず、次の関心に誘われて落下させてしまうか、惑わされることなく3本目をつかもうとするかは、後者について「考えた」結果ではないか。

 考えるものさしが乳児に存在すると仮定した。これが、上図のAに相当する。

 ぶらんこに乗りたいと思うのは、もっとずっと後のことだ。ということは、乗りたいと思う気持ち(志向)がわくこともそうだが、そのときはものさし(ハートスケール)があり、そのものさしが乗りたい志向を生むことになる。内言が外言を生む過程が推測される。

動物から”にんげん”になった瞬間〈とき〉を発見
三本ストロー法  1歳になった1月生まれの孫と公園に行った。シロツメクサが咲いていてその白い花を孫に差し出すと手を伸ばして、取った。続けてもう1本摘み、手渡すと、これも取った。3つめを渡そうとすると、すでに掴んでいたシロツメクサを片方に寄せ、そちらは2本を掴んでい...

体験のサイクル

 繰り返す体験(体験2)が感動する体験(体験1)を生む。体験(1)が体験(2)を促す。そして、再び体験(感動する体験)を生む。乳幼児期のあいだ、無数にこのサイクルが営まれ、一人一人違う同じものがないハートスケールが存在することになる。

 長じておとなになって、子ども期によく遊び多くの体験をすることで、体験(2)の先にはいつか体験(1)が現れると信じるあるいは確信となり、先のことはわからない・見えなくても、今取り組んでいることを励むようになる。または、目標を立てることが出来る。

いつからおとな?──で、遊びを考える
  「遊びとは何か?」──これを問い始めると底なしの沼に足をとられる気がしてしまう。「遊び」は子どもだけでなく、おとなを対象にしても普通に使用する。幼児教育の現場では、遊びは、最も大切な意味をもつ。なぜ大切なのか? すると、「遊びとは何か?」の問いにもどってしまう。した...
「九歳の旅立ち」を命名する
 子どもの発達は、直線的ではなく、階段状に進む。ゆっくり徐々にではなく、ある日突然、きのうまで出来なかったことが、ふと出来るような気がして実現する。「こども」が「おとな」になるときも、きっとそうだ。この変化に追いつけないのは、むしろ「おとな」だろう。(2017.4.15...

第3の体験「食べる体験」

 生まれたその瞬間から「体験」が始まる。親が子育てに愛を注いでいることに対して、あかちゃんが体験するであろうことにも意味があろう。

 母乳で育てるか、人工ミルクか。離乳して、さまざまに食べる。いろいろな食べものを経験することは「体験」だろう。布オムツか紙オムツか、この選択もある。添い寝か、ベビーベッドか。選択肢はどんどん増える。こうして、懸命に育て・育てられる。
 これらは「体験」といえる。これを「体験3」とし、包含関係は図のとおりだ。「体験3」のネーミングを「食べる体験」とした。「食べる」だけの体験ではなく、先の事例、布オムツか・添い寝かとあるように、それらを総称してあるいは象徴的に「食べる体験」とした。

 いつもいつも感動するわけではない。もとより誕生まもない頃は「あわつぶ」でイメージされ、第3の体験を想定する必要があると考えた。食べることはいのちをつなぐこと。欠かすことができない。空気のような存在・体験だが、極めて重要だ。

「食べる体験」と「食べる」ことの意味

 2歳、3歳児のすっかりはえそろった歯は美しい。ちいさいからだ、ちいさな手、しかし、大きな口をあけて見せてくれる歯は、からだに似合わない力強さを感じさせてくれる。豆まきの煎った大豆を口に入れ、ゴリゴリと音を立てる。口に入りきらないリンゴをかじる。さかなだって、平気だ。どこが食べられるかな、見分ける目と手の愛らしいこと。

 体験とは、特別なことだけではない。おなかがすいて食欲がわく。空腹を満たす意慾が生きるエネルギーとなり快感をもたらす。一緒に食べる仲間・友達・家族と共有する時間が生活の基礎となり、食べものを供給し、調理する人たちをも結ぶ。

 子どもたちに「体験」させたい、と思うおとなにありがちな間違いを指摘しておこう。2、3歳の頃はほぼ例外なく、5歳児であっても、その頃の体験は彼らにとって「はじめて」のことだ。おとなが用意したサプライズは、幼児には特別なことでなく「ふつう」なのだ。「楽しかった? びっくりした?」と訊ねれば、「楽しかった、びっくりした」と応えるだろう。「おもしろかった?」と訊ねれば「おもしろかった」と応えるだろう。それらは鸚鵡(おうむ)返しではなく応答の練習成果であって、発せられる言葉(字義)通りでないことを承知しておいてほしい。

 「食べる体験」は毎日、空気を吸うように散らばっている体験だ。見守られて安心して得心のゆく時間がすぎさってゆく。あかちゃんが泣く。おなかがすいているのかなと乳をあたえて、すやすや眠る。その泣き声は、あかちゃんの言葉であったことを発見して母もやすらぎをおぼえる。その延長線にとぎれることなく「食べる」ことの意味がある。

 「体験」とは特別なことだけではない。「ふつう」を十分に満喫し、あるとき「特別な」体験にめぐりあったとき、子どもは小躍りして喜ぶ。「もう一回して……」とねだる。安定して、過不足なく生きていられる日常の大切なことを、わたしたちおとなは、ちからを抜いて、せめて子どもの前では笑顔で向き合いたいと思う。

山田利行 2019.5.16記す
▶子育ての確からしさを考える

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